同じ場に立つということ

2018年3月10日

中学生の理科で、「力の三要素」というのを学びます。「力の作用点・力の大きさ・力の向き」の3つです。まだベクトルという概念は習いませんが、これら3つを確認し、入試問題でも矢印を図示するというものがあります。そして「力のつり合い」を考えることが重要なわけですが、2力がつり合うということは、力の大きさが等しく、反対向きであることのほかに、「同一直線上にある」という条件を押さえる必要がある点を適切に学習しなければなりません。同一直線上にないと、たとえば回転運動が生じ、つり合っているとは言えなくなるのです。
 
たとえ意見が全く反対のものであるにしても、反対だということは、同じ直線上にあるわけで、それなりのぶつかり合いや噛み合いのようなものがあると言えます。しかし、同一直線上にない相手とは、話がどうにも合いません。同じ土俵で議論しているのでなく、ぶつけた力としての言葉が空中に消えていくことを覚えるものです。それは、国会中継を見ているとよく感じられる、あの雰囲気です。
 
キリスト者は、キリストという岩の上に立っています。ですから、たとえば聖書の解釈について意見が異なるにしても、また真っ向からぶつかり合うにしても、そしてそのことを互いに苦々しく、時に腹立たしく感じたとしても、何かしら充実した対話を経験することができると思われます。大きく見ればカトリックとプロテスタントとでの意見の相違についても、そのような図式で読み解くことができるのではないかと思うのです。同じ土地に足を下ろし、向き合って同じ世界を目の前の視野に置きながら、対話を進めて行くことができるわけです。ちょうど、棋士が互いに逆向きでありながらも、同じ盤を見下ろして対局するようなものです。
 
しかし、立っている場所が異なり、別の世界を見ているならば、つまり片方は将棋盤を眺め、もう片方が碁盤を見ているとなると、対局すら成り立ちません。俺たちは同じ「棋士」なのだと自負しているので、どちらも自分は間違っていないと自信をもっているわけです。
 
キリスト者が、神の言葉にこそ命があるとして、キリストという岩に立つ者であるとするなら、それぞれに与えられた使命や働きは異なるにしても、また聖書の理解に異なる見解があったとしても、対話は成立するでしょう。足と手、耳と目のように違うことをすることになったとしても、同じからだの一部である、何らかのつながりは覚えることでしょう。同一直線上の反対向きの力であることも、つり合いの一部となるわけです。
 
これまで幾度、その意味で違和感を覚える説教を耳にしたことでしょう。解釈が違うというのではないのです。聖書や生き方について意見が違う、というのではないのです。同じ場所に立っていない、同じ景色を見ている人ではない、という違和感です。「これは牧師の言葉だから、神の言葉として聞かなければならない」という従順への命令があるために、自分のほうが間違っている、と自分に言い聞かせ、教会生活を続けてはいたのですが、そのうちに、ほかの人もまた同じ違和感を覚えるということが発覚するに至り、やはりこれは「別世界なのだ」と気づいたときには、もはや食い違いを改善するような手段も執れず、「これは違う」と断言して、そこから離れるしかなくなっていくのです。
 
それは、目を覚ましていなければ気づかないのだ、ということが、痛い目に幾度も遭う中で分かってきました。もちろん、単純に私と私に同意した人々のほうが間違っている、という可能性は当然残っています。これを結論づけることができるのは、神のほかありません。いま多くのキリスト教会が異端だと非難している対象についても、神の側からどうなのかについては、こちらで裁きをつけることはできないわけです。しかしながら、私が問題としているのは、対立意見というのではなく、そもそも立っている場所が、見ている世界が違う、という感覚です。この感覚を抑えていたところが最後には、やはりその相手はとんでもない代物であった、ということを何度か経験してくると、あながち自分のこの感覚だけがおかしいのだ、とは疑えなくなりました。そのことはまた、多くの神学者の著作や、キリスト者の証詞を見聞きするときに、さらに強く感じます。最近は説教論の類を特に多く見ていますが、その多くに共感できるし、少しばかり意見を異とすると思っても、同じ土俵で考えてのことだということが、実によく分かるのです。
 
ひとつには、語る者が神と共にいるかどうか、神と出会った経験があるのかどうか、その辺りに決定的な理由があるような気がするのですが、その辺りは個人の眼差しから決するような真似は控えることにしましょう。意見の相違ではなく、共有する場があるかどうか、これは、見かけの愛想の良さや善い行いには拠らない基準に由来します。ずいぶんと痛い目に遭ってきましたので、そろそろ私も頑固に、「これは違う」という点は適切に踏まえながら、人を見るのでなく、神に会うため、それは語弊があるとすれば、神の言葉を受けるため、主日にそれを共有できる同胞たちの交わりに与ることを続けるつもりです。祈りと賛美を献げながら。
 
幸い、ここのところは健全な言葉を受けて感謝することしきりです。



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