先生と教会

2018年2月22日

「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」
 
人口に膾炙する川柳ですが、依然として有効であることは、世間が「先生」「先生」で満ちているからでもありましょう。
 
中学一年のとき、英語で習いました。教師を呼ぶときは名前で呼びます、teacherなどを付けることはしません、と。英語でそう表現しつつ、日本の中学の教室では、英語の教師も「先生」と自然に呼ぶのが当たり前でした。
 
以降、あまり誰も表立って口にしないことを申し上げます。かなりきつく聞こえる言葉を並べます。しかしこれらは急な思いつきではなく、これまでの経験と思いとを重ねた苦言を、教会を建て上げるために必要な声だと信じて、綴ってみようと思います。但し、話の性格上、どうしてもステレオタイプな表現で言い切ってしまうことになります。その立場にある方で、実情と違うとか、全員がそうではないとか、いろいろ気に障ることがあるだろうことが予想されます。あくまでもひとつの形やパターンのような具合に好意的に読んで戴けたら幸いだ、と甘えるしかないのですが、それでも中途で不愉快を覚えた方は、どうぞそこで読むのをお止め下さいますように。忍耐してくださった方も、可能な限り、心を汲みとってくだされば幸いです。誰かが問題を指摘することは、多くの人の益になると思うあまりに、余計なことまで口走ってしまうだけです。また、私の直接体験したことのほかには、特定の個人や団体を想定しているようなつもりも全くありませんので、その点もご理解ください。
 
「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」と聖書にあります。そして、聖書は誤り無き神の言葉である、と告げる教会があります。その教会では殆どの場合、牧師を「先生」と呼んでいるのが実情ではないでしょうか。
 
では、聖書原理主義に立つのではないから構わない、という論理でよいのかどうか。聖書に書いてある文字通りに従うべきなら、もっと変な命令や現代では不可能な教えがたくさんある、というのも尤もです。果たして形だけのものなのか、という議論も当然あってよいものです。
 
けれども、現に私たちの社会で、いえ教会で、「先生」と呼ばれる立場の人はどうでしょう。牧師がそう呼ばれているという現象だけではありません。教会の役員を見渡すと、「先生」と呼ばれる人が多くないでしょうか。学校などの教諭や大学教授関係、医師、弁護士、その他政治家はいるかしら、作家や芸術家も呼ばれるでしょうね。
 
特に教育関係の先生の場合は、日常的に子どもや青年などを指導する立場にあります。この視点は、教会の教育や経営に対して、能力を発揮する場合が多く、そのために役員選挙においても、安心して任せるという傾向があります。また、受ける側も、ふだんの業務と類似性がありますから、引き受けることに吝かではないと思われます。
 
けれども、教室における「先生」の権限は絶大なものがあり、およそ他の社会では見られない自由さをもつと考えられます。カスタマーに対して怒鳴ることが許される現場はそうありはしません。いえ、学校でその力を実際に有するのは校長ひとりだ、という実情も正しいのでしょうが、概して、教室では教師は全責任を背負う代わりに上に立ち、時に一人ででも生徒全員の決定を覆すだけの権力を、教育の名の下に担っているのは確かです。そして児童や生徒などの側からして、この人に逆らうことはできないというあり方が基底にあるのは事実です。おとなしく従っておくという世渡りを子どもたちは覚えます。しかし近年社会の目が厳しくなり、子どもたちも保護者も、黙っていなくなってきました。SNSの発達も一役買っているかもしれません。こうして教室内での行き過ぎがしばしば露わになって社会問題のように扱われたり、時に犯罪として挙げられたりするわけです。
 
しかしながら大抵の場合、教室やその講座、講義における「先生」は、政治家や弁護士などもおそらく、その他のメンバーと対等ではない、ということです。議員などでただの「代表」です、という建前はあっても、事実上平等な立場ではありえないのです。多くのプロテスタント教会では、万人祭司という建前を持っていても、実情として、牧師は平等とはなりません。牧師を辞めさせることもわりとありますが、信徒を(様々な仕方で)追い出すほうが簡単であることは当然でしょう。もちろん、役職上の観点での区別はあっても、その他平等であって然るべき場合においても、強い力を出すことができる状態にあり、また多くの場合、特権的な意見の持ち主として、牧師は扱われているのではないでしょうか。
 
事は牧師といった有資格の役職には限りません。教会の役員がこぞって社会的に立場で「先生」であるようなことはないでしょうか。選挙という選出方法であっても、気づけば「先生」と名の付く仕事の人が選ばれて、教会を動かしている、という実態は、少なくないと思われます。それだけの力量があると見なされ、そうなると教会においても、教室の論理が常識として扱われ、社会常識とは乖離してしまっている、あるいは乖離していることに気づかない場合が見受けられますし、また、気づいていても、でもいいじゃないか、と「先生」の理論で片づけてしまいがちにもなります。中には、信仰を実はもっていないままに「先生」だからと担ぎ上げられ、本人にとっても教会にとっても不幸な末路を辿るという例もあるようです。
 
一般企業では許されないミスも、学校ではよくあることだから慣れっこになってしまう、というのはよくある姿です。学校と違って企業は、信頼が第一ですし、そのためには奉仕的な考えを根底に置く必要が多いものです。配付された印刷物のミスを刷り直すのは民間では当然ですが、公立学校ではなかなかしません。食品会社は一片の異物混入の発覚で何万という商品を回収します。自動車業界では僅かな危険性の指摘で何万台もの車のリコールを行います。暖房機器や電化製品もよく聞く話です。それを怠ると社会から徹底的に叩かれるからです。告知情報の誤りに対してはひたすら頭を下げるしかなく、時に賠償にも応じなければなりません。
 
うちの子の通う公立学校からもたらされる印刷物のミスは日常的でした(公立高校はまずありませんでしたが)。中には日本語が怪しい担任教師もいましたし、日時と曜日の不一致は、ほぼ普遍的に見られました。前年の印刷物を書き換えるために起こる、ありがちなミスです。しかしどちらを信用して行けばよいのか、もらったほうは分かりません。問い合わせると、ああすみません、で終わります。その間違いについての誠意ある訂正や対応は、あまりありませんでした。表向き誤る言葉をその場で投げかけますが、それでも同じ誤りは延々と繰り返されるのが普通でした。こちらも、それが「先生」の常識であるとだんだん気づいてきました。教室や授業という持ち場において、先生はいわば王様、少なくとも管理人になることができます。それが日常の勤務のスタイルです。校長の言いなり、というような大人の実情のことを言っているのではなく、現場の授業の中で圧倒的な権威をもつ存在でありうるということです。これを勘違いした先生が、稀にかもしれませんが、新聞沙汰になるようなことをしでかしてしまうのかもしれません。自分の誤りは軽く許してもらうが、生徒の誤りは、教育的指導という名目で糾弾することがありうるわけです。
 
もしも教会が「先生」の原理の下にある集団と化すとき、似たようなことが起こる可能性があります。いえ、私の経験では、概ね似たようなことが多々ありました。仲間内なのだから、許し合うべき共同体なのだから、と「先生」の側からの都合のよい論理を持ち出して、まあまあ小さなことだからこだわらないでいきましょう、と上から目線で自分のミスを許せと迫る姿勢が、自然で当たり前だと「先生」のほうで決めてしまいがちになりうるのです。これは恐いことに、何かひとに頼んだり、ちょっと話し合ったりするときの、言葉の隅々にそれが滲み出ているのですが、ご本人は普段のことなので、まず気づきません。少なくとも、営業職をしている人とは、明らかに姿勢が違うのです。「先生」という立場で振る舞っているときの常識が、世間一般の常識である、と勘違いしてしまっているのであり、「先生」しか経験のない人には、その世間の姿が理解できないのです。
 
時折、学校の教師を、一般企業に研修に出すという企画があるらしく、ニュースになっていることがあります。ニュースになるくらいですから、ふだん殆ど行われていないわけでしょう。学習塾を見学させてもらうという公立学校も実際ごく一部ですがありました。すると教師たちは、それまで当たり前だと思っていた学校での考え方が崩されるのを覚えると言いますし、それが狙いであるとも言われます。いくら生徒を支配してもそこから生徒が逃れられない構造になっている学校と、生徒のためにならないことをすれば生徒がすぐにやめてしまい商売が成り立たなくなってしまう学習塾とでは、根底的にスタンスが違うという、当たり前のことにようやく気づくというのです。つまり、塾は教育にも関わりますが、営業の姿勢もあるということであり、「先生」たちは後者の原理がわからないのです。
 
営業職は、口約束でも決して軽視しません。信頼に関わるからです。もちろん契約書は法的にも最重要でしょうが、口約束であっても、顧客はそれを言ったのにしてくれない、ということであっては、信頼を失います。営業においては、口約束も、契約と同じ重みをもって対処します。信頼(クレジット)を失うということは、死活問題となるからです。それどころか、顧客が直接言わなくても、このようにしてほしいと考えているだろう、という推測の下に先回りさえします。果たして学校の先生はどうでしょうか。最近はだいぶ意識も変わってきましたが、子ども相手には「ああ、忘れとった、すまん、すまん」で済むという場面が、やはり随所に見られます。保護者に対しても、「すみません、間違っていました」で済むような空気も、消えることがありません(しかし優れた高校になると、さすがにこうした点で問題を感じたことはありません。小中学校と幼稚園で拙いケースがあったということです)。教職者が過労だという社会問題があるのは存じておりますから、これは個人の責任だとばかり言うつもりはありませんが、ならばなおさら、これは組織的な問題であると言うことも可能でしょう。信頼を失えば顧客が離れるという営業と、信頼が薄くとも顧客側としてはそこに留まるしかないような教室とでは、信頼というものに対する運営側の感覚に温度差があることは否定できないでしょう。
 
また、「先生」として教室に立つと、たとえば目の前に生徒が30人いるわけです。数字の上では、ある一人の生徒は、30分の1に過ぎません。それぞれと一対一で向き合っていると、先生は30人分のエネルギーを必要とする理屈になります。すると、生徒一人の声も30分の1のものとしてしか扱えなくなります。しかし生徒からすれば、先生は一人です。この比重の差が、同じ言葉を交わしたときの意味の差となる可能性があります。営業する者も、多数の顧客を扱うとなると、客一人あたりが何十分の一という理解になることも考えられますが、通りがかりの客を拾うというのではなく、顧客としてあたる場合、一人を失うことの許されない状況が起こります。一定の権限をもつ責任ある顧客にとっては、多数の営業者の中からひとつと契約するという形になるため、むしろ営業する者は、選ばれる立場にあるという場合がありましょう。この顧客の信頼を失ったら自分の身はない、という覚悟を帯びるビジネスの現場に出くわすことは、営業の世界ならば、多々あることでしょう。果たして「先生」という立場から、そのような切実さがどのくらいあるのか。むしろ政治家の場合ならば、どこを切ってどこを得るかという計算の中で事を進めていく手法を選ぶことは間違いないし、それが悪いとは言えません。最大多数のことを考慮するのでないと、一人ひとりすべてを重んじることは不可能なのですから。教会も、組織であるとするなら、数で動いていかなければならないことはありましょう。ただそこに、基準としての聖書や伝統という原理があるところから、民意で動いていく社会の動きとは根底的に違うとも言えます。単純な比較はできません。それでも、それが必要なことがあるにせよ、意識の中で、one of them という扱いを先生がしがちではないか、という点は、何かのときに罠となることがありうるとは言えないでしょうか。
 
このような文句めいたことばかり申しますと、「ひとを裁くのはやめよ」と言われそうです。果たして私が裁いているのかどうか、それは神に委ねます。しかし、いろいろな姿の教会を見てきた者としての証言ですが、えてして、「先生」のほうが、ひとを裁いているように見受けられるケースがありました。私も、幾度そのようなことを言われてきたことでしょう。聖書にある言葉で信徒を一方的に非難するということも、軽々しくやってしまう牧師が複数いるということは、偶々私が出会った人の個性というだけでは済まないという見解を支持するものではありますまいか。ひとえに「先生」という立場が、自分の判断は神の判断だとでも言わんばかりの権威を揮っている点で、それらの経験はほぼ共通しています。そして、個人的に個人の言動を「教育的に」あるいは時に「聖書的に」、一方的に非難するのです。「批判」ではなく。
 
教会の指導をする方々、役員を務めている方々、ここまで不愉快な長文をお読みくださったことを感謝します。偉そうなことばかり申しましたが、私自身いくつかの立場を経験している者です。教会の役員経験もありますが、日常では教育関係でしかも営業を交えた立場にあります。教会の役員をしていた時にも、極力、教会員の小さな声や意見を聞き取ろうとし、単に大きな決定をする時にだけ、責任を負う覚悟をもつ立場だという自覚をもっていました。そして、信仰生活をできるだけ平穏に続けることを皆さんができるように、妙な手続きや争い事のために実務に携わる「汚れ役」であるのだ、という意識で担わせて戴きました。それがうまくできていたかどうかは分かりません。しかし、それなりにですが、そのようにして「仕える」ことをなすものだという理解を続けてきました。もちろん、できなかったことのほうが悔やまれることが多々あるのも確かです。いや、それどころか、私が自分で言うような「先生」であったのではないかと危惧しています。言動からして、なんだか威張って指導する先生のようなふうであることは、たぶん一目瞭然であって、そういう自分の意識やあり方を考えるが故に、このような「先生」観ができてきたのでしょう。世の多くの先生方は、一様に、先生なんてそんなものではない、とシュプレヒコールをぶつけてくるかもしれません。そう、立派な教諭や先生方も、たくさんいらっしゃることは、重々承知しております。また、牧師の中には、現在も世にて職に就いている方がいらっしゃるし、世の仕事の経験をもち、それを踏まえて福音を伝えている方がいらっしゃいます。そうした方々の姿勢にはほんとうに頭が下がる対応が多いものです。「先生」の世界だけに浸るのとは違う空気が明らかに感じられてなりません。私などは全然緩いとしか言いようがありません。
 
それでもなお問います。「先生」仲間どうしでの付き合いは楽しいでしょうが、教育界を見渡すと、そういうときに「生徒」の心とかけ離れていくという現象が生ずるのではないでしょうか。教会は、「先生」が引っ張るものだという了解が、果たして正当なのでしょうか。主イエスが弟子たちの足を洗ったことを美しい額に掲げて鑑賞したり、そこから教訓を垂れたりするのは、いわば簡単なことです。しかし、その実やっている態度はファリサイ派のようなことだ、というふうであってほしくないのです。その意味で、「先生と呼ばれてはならない」というイエスの言葉を私は噛みしめたい。このような悪しき「先生」が、教会の中からいなくなることを、イエスの言葉に合わせて願いたいと思うのです。



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