「目的」と「目標」

2018年2月18日

手話は、直接的な語彙は日本語より少ないものです。場面や文脈や口の形などで区別します。それで「目的」も「目標」も、見た目では同じような手の動きになります。左手でグーを少し高く上げ、右手の人差し指だけを伸ばした形でグーの親指と人差し指のところを叩くような形です。「的」を射るあるいは示すような意味なのでしょう。
 
しかし、実は微妙な差異があると言われます。「目的」のほうが、その的がやや高く、心持ち遠くなるように構えると区別できるのです。(NHKでは、「目標」のときに、先に自分の目を人差し指で指してからこの動きをするようになっていますし、的のほうも人差し指を立ててそこへ右手の人差し指を近づけるようにするろう者もいます)。
 
ピョンチャンでのオリンピックで、私が思わず見入ってしまったのが、カーリング競技。ストーンを、狙いのところにぴたりと寄せる技術はすばらしいと感動していました。ではどうやって狙うのかというと、ブラシをもつ選手が、ここに投げろ、とブラシを立てて目標にしているのです。野球で、キャッチャーが、ここへ投げろとミットを構えているような感じなのかもしれません。
 
カーリングの目的は何でしょう。もちろん勝つことですが、勝つということは具体的には、相手のストーンよりもハウス(円)の中心のティーに近い位置に自分たちのストーンを入れることを意味します。これがストーンを投げ入れる目的です。
 
そして、そのためには、仲間の立てたブラシを目標とします。その目標に向けてストーンを押し出すだけです。コースさえ定まってそれが守れたら、あとはショットする者の力加減(ウェイト)の技術で成功するかどうかが決まります。
 
ボウリングでも、ピンを見て投げはしません。すぐ目の前にあるスパットと呼ばれる7個の三角マークを目がけて転がしてコースを決めます。このスパットが、さしあたりの目標となるのです。
 
入試に合格するという目的のために、今日は英単語を10個覚えるぞ、というような目標を立てます。私たちは、相対的ですが、目的と目標とを使い分けています。その点、「究極目的」などというと、考え込んでしまいます。「ひとは何のために生きているのか」ということになるからです。そしてパウロであれば、「神のために」などと言うかもしれません。
 
問題は、時に目標が目的のようになってしまう危険性があることです。Aを実現するためにはBをしなければならない、という筋道を立てるまではよかったのですが、今度は何がなんでもBをしなければならない、というように、Aを忘れて、時にAが不可能になりかねないのにBをどうしてもしなければ、という気持ちになってしまうことです。合格のために勉強するのだと言いながら、夜更かしを続けて体を壊すというのが、たとえばそういうことであるかもしれません。
 
しかし目的のためには、やはり目標が必要です。手近な目標なしには、遠い目的へ向かうことは難しいのが普通です。古代イスラエルは、神という目的は与えられていました。しかし、その目標はあまりに遠くて、どうやってよいのか分かりにくいものでした。神は律法という目標を与えました。しかしその目標を目的化して、イスラエルの間で歪んだ人間関係がはびこってしまうようになりました。目的である神をついに忘れて、目標に熱中してしまうようなことになってしまったのです。
 
神は、新たな目標を与えました。それは神には実に痛いものでしたが、切り札としてひとり子を世に送り、なぶり殺しにさせることで、人間がほんとうの意味の罪に気づいて、神という目的に向かうことができる道を備えました。いま私たちには、イエス・キリストという目標が与えられました。殺されましたが、死んだ目標だと私たちはどうしてよいか分かりません。復活という形で生きて、いまここに主が共にいて、そしてこの目標に生きることで、その向こうに究極の目的へ辿り着くような道を約束してくださったのです。イエス・キリストはこうして道となりました。その目的は、永遠の命という名前でも掲げられています。
 
目的のために、自分の力でなんとかなる、と依然としてそれまでの考え方を主張した真面目な者たちが、福音書で幾人も登場します。それを退けつつ、時にイエスは慈しみの目を以て、その者に、気づけよ、と心で声をかけていたようにも見受けられます。そして、自分が目標となることを引き受けつつ、地上で精一杯の歩みをしたことが、記録から窺えます。イエス・キリストという目標を確かに引き継いでくれた使徒たちによって、いまもなお私たちに、変わらぬ目標が届けられています。私たちは、聖書を通じて、イエス・キリストという目標から目を離さないでいようではありませんか。



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