説教のテロスの語り方

2018年2月14日

礼拝には説教があります。「説教」という語の響きはあまりよくないですね。「お」を付けると、聞きたくないものになりますから。
 
何事であれ、受けるものについて、自ら与える側に立つと、見える景色が変わってくるといいます。自ら説教をする経験をもつと、説教のなんたるかについて、深い関心を抱かざるをえません。多くの説教論に耳を傾け、また特にドイツとアメリカの現代的傾向や考え方を学ぶと、自分の語るところがどういう位置にあるのかもぼんやり見えてきます。
 
所属する教会の牧師の説教がすべてだと見なす必要はないでしょう。幾人かの説教者が礼拝の場に立つ教会は、ある意味で恵まれています。同じ地ではあるにせよ、違う窓から見える景色を体験できます。また、説教の幾つかのタイプを知ることができます。
 
そこでいろいろ教えられることも度々です。先般は、こんなことをなるほどと想わされました。
 
救いや永遠の命、そうしたものが私たちのいわば目的(テロス)であると理解できるでしょう。信仰の行き着く先にはそれがある、あるいはそれを目指している、それともまた、イエスによりそれがもう与えられているのだ、いろいろな形で語ることができるかと思われます。但し、私などもやりがちなことがあります。「では永遠の命とは何でしょう」という問いかけです。目的のものについて、ある程度共通のイメージを抱かなければ、説教は成り立たない、と思ってしまうわけです。
 
しかしその説教は違いました。そのような定義にはまるで関心がないように語り続けるのです。もう当たり前の所与のものとして、永遠の命が周知であるかのようにどんどん語ります。それは、各自で別々のものを想定してしまい、まとまりがつかなくなるのではないか、私ならそのように考えてしまいそうでした。けれども、その後、視点を人間の置かれた立場に向け、人間が、あるいは私たち、そして私が、いかに心が乱れ、項垂れ、死んだようになっているかという点については、ピントのあった像を目の前に描き、突きつけるのです。現実は明確にさせ、そして信仰の行き着く先(テロス)については各自のもつ信仰のイメージを打ち壊したり否定したりするような危険性を避けるかのような配慮だと、私は気づきました。もしも、永遠の命とはこのようなものだ、救いはこうでなければならない、と規定してしまうと、思い描いていたものと違う人は、抵抗し、あるいは心を閉ざし、どうかするとそのことだけで信仰を離れてしまうかもしれません。希望のピントを合わせることも、必要な時はありますが、その説教では、それを徹底的に回避したと思われました。ただ、イエス・キリストという道だけがあるのだ、ということを明らかにすれば、あとはそれぞれの魂を神が導いて、完成(テロス)してくださるという信頼があった、とも言えるかもしれません。
 
答えを出すのが説教であるとは限りません。そして私もまた、それを心がけていたはずでした。道標がここにあるよ、と指し示すはたらき。惑わすものを遠ざけ、怪しい看板に気をつけるように告げ、リテラシーを以て臨むように問いかけつつ、これが救いだと決めつけるのでなく、救いへの確かな案内を呼びかけることが、少しばかり聖書にかじりつく時間を与えられた自分の役割ではないか、と。だから、そのポリシーに則るならば、このとき聞いた説教のスタンスというのはむべなるかなと教えられたのでした。



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