受動態の主体

2018年2月6日

手話条例の記事の中で、たとえばこのように記されているものがあります。
 
全日本ろうあ連盟の久松三二事務局長は「日本では長い間、手話は『手まね』とさげすまれてきた歴史がある」と明かす。
 
いま注目するのは「さげすまされてきた」という言葉です。英語的に言えば受動態です。ユダヤ文化であれば、受動態は主体が神であることを前提としている、というケースがあります。聖書で主語を示さない受動態を見たら、ひとまず、「神によって」と補うと、筆者の意図が理解できるということがよくあります。
 
この記事においてこの言葉は、ろうあ連盟の事務局長が言っている点に注意します。ろう者の立場から、「されてきた」と言っているのです。ところがこの記事を読む聴者も全く同じ気持ちで、「されてきた」と受け取るのが普通ではないでしょうか。それでよいのでしょうか。
 
誰が、さげすんできたのでしょう。まさしく聴者です。聴者である、私です。そして聴者である、あなたです。「いや、ばかなことを言うな。私はさげすんだ覚えなどない」という声が聞こえてきそうですね。問われているのは、そこだと思います。
 
罪という概念も、これとひじょうに類似しています。「私は悪いことをしていない」としか思えない状態ではまるで「知ることができない」のが、新約聖書です。
 
ところで新約聖書でイエスについて「十字架に」に続く言葉は、基本的に「つける」「つけられた」のどちらかなのですが、興味深いことに、福音書と使徒言行録では、その多くが「つける」の形で現れてきます。パウロ以外の書簡だとこの表現がそもそも殆どありません。
 
パウロでは、無理解なこの世の支配者たちがもし理解していたら主を十字架につけなかっただろうという言い方(コリ一2:8)と、キリスト・イエスのものとなった者が己れの「肉」を十字架につけたとする言い方(ガラテヤ5:24)が、パウロにおける「つける」の例です。
 
パウロは基本的に「つけられた」を多く用います。「十字架につけられた」の表現ですが、キリストについて言うほかに、自分がキリストと共に十字架に「つけられた」という言い方も2箇所あります(ローマ6:6,ガラテヤ2:19)。
 
日本語では区別されますが、欧米語では一般に「主語」と「主体」は同じ語で示されます。受動態の文法上の主語と共に、何によってか、という意味上の主語(主体)を考えてみることで、新約聖書の言葉が――神の呼びかけが――ぐっと近くなるように思うのですが、如何でしょうか。



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