少しの違いのサマリア人

2018年2月4日

サマリアは、新約聖書では、福音書と使徒言行録にのみ現れます。面白いことに、マルコには一度も登場しません。マタイでは一度「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない」」(マタイ10:5)と出て来るだけで、ルカになると四度現れます。
 
エルサレムしか眼中にないイエスがサマリアの村に入りますが村人に歓迎されなかったために、弟子たちが焼き滅ぼそうかと言う場面(ルカ9:52)。いわゆる善きサマリア人のたとえ(ルカ10:33)。そして、サマリアとガリラヤの間を通ったときに、十人の皮膚病者が癒されるがそのうち一人のサマリア人しか感謝に戻って来なかったという話(ルカ17:11,16)。
 
そしてヨハネになると、サマリアの町シカルでヤコブの井戸の脇で女と出会う場面でその問答において、またイエスを信じたという町の人々が来たという記事で、サマリアの語が六度現れます(ヨハネ4章)。その他は、イエスを信じたユダヤ人たちにアブラハムの子にまつわる話をしているときに、ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」(ヨハネ8:48)と言い返したときに使われています。イエスはこの後殺されそうになります。
 
福音書に登場するサマリアは以上です。どうやら、ほぼ各福音書独自の視点から集められ編集された記事においてこそ「サマリア」の語は扱われ、特に最初のマルコにはサマリアという単語はイエスの生涯を描くには無用とされていたようです。使徒言行録は、ルカによる福音書の後編だと言われますが、ここでは、基本的に町の名前として八度出てきます。全体的に、サマリアは異邦の地と見なされて扱われているように見えます。
 
そう。サマリアは、新約の時代のユダヤ人からすれば、外国でした。イスラエル全体からしてもほぼ中央に位置し、サマリア地区はおよそ60km四方に及びます。B.C.9世紀に北イスラエルの王オムリが建設し、要塞としてもすぐれた立地だと言えました。その子アハブの時代に最盛期を迎えましたが、南ユダ王国から見れば偶像を拝むと見ていた北イスラエルの宗教が、アハブの外交手腕の良さと共に海外の神々を益々流入させるに至りました。このアハブについては旧約聖書で多くのエピソードが載せられていて、せっかく政治的にはなかなかの持ち味があったものの、宗教的にはすっかり悪者として描かれることとなりました。
 
その後、B.C.721年に北イスラエルはアッシリア帝国に滅ぼされます。有能な人材は国外に退去、連行され、代わりにメソポタミアから移民をイスラエルの地に入れられ、当初のイスラエル人としての国家の再生が不可能にさせられました。それでも主の預言者たちの活躍もありイスラエルの神の信仰は消えることはありませんでしたが、どうしても混血となった子孫がサマリア人と呼ばれるようになり、その信仰は、ダビデの血筋を守り旧約(といっても今私たちの知るもののうちのわずかですが)を貫こうとする南ユダ王国の宗教事情からすればずいぶんと旧態のものから外れたものであるように見え、純粋な民族宗教を主張する南ユダからすれば、北イスラエルの信仰は不純で偏った異教だと見られていました。つまりは、ユダから見ればもはや北イスラエルは外国でした。
 
もちろん、ユダも新バビロニア帝国に滅ぼされ捕囚の民が移住しますが、ユダの地に残った人々も少なからずいました。新バビロニア帝国の属州とされましたが、その帝国を滅ぼして支配したアケメネス朝ペルシアの王は寛容政策で捕囚の民を帰還させます。百年を俟たずユダの地に戻って来ることができた捕囚の民と共に新しい出発をするのでした。このとき北イスラエルは新たなユダの歩みに近づけさせてはもらえませんでした。
 
B.C.4世紀にこの地域にヒーローが現れます。アレクサンドロス3世です。マケドニア王国の若い王は戦争の天才で、周辺諸国をあっという間に支配下におき、大帝国を築きます。こうして文化交流が起こった様子を、ヘレニズム文化と呼ぶことは、歴史で学んだことでしょう。ユダもその支配下に移りますが、王が若死にすると、新しくセレウコス朝シリアの支配を受けます。ここから一時独立を得るような時期もあり、新共同訳の「旧約聖書続編」には興味深い歴史が描かれています。
 
B.C.64年にはセレウコス朝シリアがローマの属州となるに及び、ユダも今度はローマの支配を受けるようになりました。またヘレニズム文化が広まっていたこの時代、ユダヤ人は広い知識に商売などで才覚を発揮していました。これが後のディアスポラの走りとなります。なお、すでにバビロン捕囚の後には旧来の十二部族などの分類が不可能になっていたと思われ、ユダ族を中心として集まった民族は、ユダの人々、すなわち「ユダヤ人」と呼ばれるようになっていたようです。
 
ローマ帝国は、政治経済と軍事においてはユダヤ人の地域を支配していましたが、宗教については比較的寛容に自由を与えていました。そこで、ユダヤ地方では、いつかメシアが来てかつてのダビデ王国のような栄光をもたらしてくれると信じるようにもなり、それ故にまた、伝統の宗教を歪めた混血の外国人たちであるとして、北イスラエルの人々、その代表のサマリア人については、彼らが自分たちの信仰のスタイルを持てば持つほど、あれは偽物でけしからん、と嫌うようになっていたのです。
 
同じ神を仰ぐと言いながら、少しの教義の相違で、むしろ他の神を拝む者よりもいっそう憎しみを抱くというのは、その時も今も、あまり変わりがないような気がするのですが、如何でしょうか。



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