病気を含めての私

2018年2月2日

病気を抱える人、痛みが辛い人。その人に私たちクリスチャンは「癒されますように」と祈ります。それはひとつの礼儀として、言ってよいことだとは思います。
 
でも、ほんとうにそれでよいのでしょうか。
 
冷たいと言われるかもしれませんが、私は安易には言いたくないのです。癒されますように、という祈りをその人のためにするならば、私は無数の病人や怪我人のために祈らなければならなくなります。ありとあらゆるこの世の病を癒すべき立ち上がらなければなりません。
 
そればかりか、何かその人が怪しい治療法に夢中になっていくのを見かけて、それで治るといいですね、祈っていますよ、などと告げることが、どれだけ道を誤らせることになるか、無責任な場合すらあるだろうと考えるのです。
 
誰もが、何かを抱えて生きています。私もです。けれども、それが治るように、と祈られることには違和感を覚えます。それは私の個性です。それがない私というのは、どんな健康体を望んでいることになるでしょうか。無傷の新品の機械であり続けたいというわけでしょうか。減価償却はあるものです。そして、その傷も痛みも、私の一部であり、私のアイデンティティであるはずです。その私を丸ごと愛してくださった方がいる、とクリスチャンは口で告白しているのだと理解しています。
 
病も私の一部。それを含めての私。私はそれと良いつきあいを続けていく、それが私を受け容れること。そのように考えるのです。
 
逆に、その病を取り去るため、痛みを消すため、神ならぬ何ものかにすっかり支配されるような生き方をしなければならなくなったとしたら、私にはそれが悲しい。知らず識らずのうちに、別のものを金科玉条のごとく冠に掲げ、それの言いなりになっていく自分というものがそこにあるような気がしてなりません。そのことには実は気づきにくいのです。判断する自分自身が支配されているのですから。
 
ほんとうに自分を滅ぼすような病は、イエス・キリストが担ってくださった、というのが信仰ではありませんか。キリストを信じれば痛みが消えます、などというのでもありませんが、自分をだめにする痛みはキリストがもう担い、解決してくださっているとして十字架を見上げることを私たちは良いニュースとして伝えられているではありませんか。
 
ただ、痛みをもつ人を他人事のように見るつもりはありません。辛いですね、その言葉は惜しみなく告げますし、何かできることがあれば助けたいとも思います。信用できる医療についての情報もお知らせしますし、何も言わずにそばにいるということも致します。こうしたことはケースバイケースです。互いにキリストを見上げる者として、歩ませて戴きたいとは思うのです。ご理解戴ければ幸いです。
 
そして私には、肉体的苦痛は伴わなかったかもしれないけれども、取り去ることのできない苦痛が具わっており、それをまるごと抱えて――主イエスに癒されて――こうして歩むことができている、ということも、ささやかに付け加えていてもよいでしょうか。



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