エル

2018年1月28日

「我らと共にいます神」という聖書の重要なテーマがあります。この「います」は「在す」と書きます。元は「坐す」とも記しました。「母は家にいます」という現代語とは重みが違います。「いらっしゃる」の尊敬語であり、「ある」「いる」の尊敬語から、「行く」「来る」の尊敬語ともなります。高校の古文で「あり・をり・はべり・いまそかり」のように覚えた人もおいでではないでしょうか。ラ行変格活用はこの四語である、というわけでした。「天にまします」の「まし」の語に「い」が付いたものと見られています。
 
さて、「神我らと共にいます」は新約聖書の中で「インマヌエル」(マタイ1:23)という語の意味であると解説されています。これはご存じのとおり、イザヤ書の預言に基づいていることが、当時聖書をよく知る人には明らかでした。南ユダの王アハズはアッシリアに従い、アッシリアに対抗するアラムと北イスラエルとが同盟を結び、ユダを侵略しようとします。動揺するアハズに、預言者イザヤが「インマヌエル」と呼ばれる子が生まれたのがしるしであるから、やがてユダは勝利し繁栄すると告げます。
 
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ7:14)
 
ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。(イザヤ8:8)
 
しかしアハズ王はアッシリアに寄り添い、アッシリアの進軍であの二国の侵略は防げましたが、ユダもまたアッシリアに支配されることになってしまいます。キリスト(救い主)の誕生は、再びユダが回復し繁栄することの希望でした。
 
「インマヌエル」の語はヘブル語で「インマ」(with)と「ヌ」(us)と「エル」(God)を合わせたものです。
 
この「神」を表す「エル」について、手短にお話しします。
 
「全能の神」を「エル・シャダイ」(創世記17:1など)と称しています(ゲームじゃないよ)が、そもそも「イスラエル」もこの「エル」が付いています。その他、人名や地名など、特に旧約聖書には実にたくさん「エル」が付いていますので、今後出会ったら、注目してみるとよいかと思います。
 
神にはほかに「ヤハウェ」という呼び方がありました。以前は、基本的に子音だけ並べるヘブル語に付けられた母音のために「エホバ」と読まれていましたが、これは、(バビロン捕囚の頃でしょうか)直接神の名を呼ぶことが十戒で禁じられていると理解した人々が、「主人」を表す「アドナイ」の母音を、「ヤハウェ」の子音に振ったのをそのまま読んだものでした。短く「ヤハ」のように特に詩編で訳されている場面もあります。邦訳聖書ではしばしば「主」として(新改訳ではこれを太字で)表しているのが、このヤハウェと記されている部分です。
 
しかしまた、古いカナンの地方で神々を指す語として「エル」系統の語があったと見られています。これをヤハウェを呼ぶときにも用いたことで、ちょうど日本語で「主」「神」と別の語を使うように(英語でも「Lord」と「God」がこれに相当する)、固有名詞的な「ヤハウェ」と一般名詞的な「エル」とがあるように見受けられます。
 
このほかに「エロヒム」なる語が実は数千回登場するのですが、これは「エル」の語の複数形です。あれあれ、神が複数いるのかしら、とご心配なさるかもしれませんが、唯一なる神を複数形で表現するという考え方が当地にあるようで、神が「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」(創世記1:26)と言ったような場面が多々あります。
 
そもそも日本語で「神」を用いたときも、「上帝」がよいのではないかと中国において議論があり、そのまま日本に流れこんできたのではないか、とも言われています。しかし日本に来た宣教師には「大日」がよいとも最初言いましたが、これはまずいと気づき、該当する日本語がないとして「ぜうす」と発音通りに用いさせたため、キリシタン関係ではそう通っています。カトリックでその後用いた「天主」は、「天主堂」という名で今も残っています。元来「神」なる語はすぐれたものを容易に表すことができるため、簡単に「神って」しまうこの文化の中で、はたして「神」が相応しかったのかどうかは、いまも議論に上ることがあるのです。



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