ぶどう酒

2018年1月7日

 
ぶどう、またはぶどう酒が聖書にどれだけ出てくるか、拾い始めると幾日かかるか知れません。主の晩餐式に欠かせないぶどう酒ですが、近年は諸事情でアルコールなしの果汁を用いる教会が多くなりました。食べることは人間の生きる基本です。聖書に登場する食べ物については、少し古くなりますが『食べ物からみた聖書』(河野友美・日本基督教団出版局・1984)という本があります(いまは殆ど流通していません)。故人となりましたが、栄養や食品についての研究で著名なクリスチャンの著者による、的確な説明はいまなお私の記憶によく残るものです。この内容も時折参考にしながら、今回はぶどうについてピックアップしてみようかと思います。
 
ぶどう酒はキリストの血を記念して、新約聖書のパウロ書簡とて福音書の記述を根拠に、教会で共にキリストにある仲間のうちで、営まれる主の晩餐式ないし聖餐式において口にされてきました。いまではワインの中には1000万円の値のついたものもあるほどですが、キリスト教の拡大によりヨーロッパ文化に根付くようになったお酒です。
 
もちろんぶどうから作ります。健康上、適度なアルコールは推奨される場合があります。またお茶もそうですが、古来薬用として利用されることもありました。かといって、未成年の皆さんはいけませんよ。心臓の鼓動を早め、欠陥を拡張する作用がありますから、たとえば酸素欠乏による高山病の症状が緩和されるともいいます。
 
ワインビネガーという調味料があります。ぶどうから作った酢です。綴り(vinegar)からしてワイン(古くはVin/古くはvはuの発音だった)と関係があることが明確です。ぶどうは発酵しやすく、放置してくと酢酸菌が入ってアルコールが酢酸(酢)へと変わります。十字架のイエスの口元へと運ばれたのもこの類かもしれません。柑橘類は聖書に登場しませんから、酸っぱい料理にはこれが使われていたのではないかと思われます。「父が酸いぶどうを食べたので、子どもの歯が浮く」という諺が聖書に出てくることがありますが、強い酸であったのかもしれません。
 
そもそも主イエス自身、大酒飲みと罵られることがありましたから、ぶどう酒ももしかすると豪快に飲まれたのかもしれません。いや、悪口ですから、差別された人々と食卓を共にして仲間のようにしていたイエスのことを、オーバーに表現してという可能性もあります。しかしあの最後の晩餐ではやはり、このぶどう酒を、弟子たちと分かち合ったのは間違いないでしょう。血の色に見立てて、十字架で殺されるときの血を象徴されたのでしょうし、血は命を表しますから、命を献げることを覚え続けるように諭したとも言えるでしょう。過越の食事には酢が用いられていたはずですし、パンを酢か酢と何かの混ぜ合わせたソースに浸していたとすれば、ユダの裏切りのシーンにも登場していたことになります。
 
ぶどうの実は、カナンの偵察に出たヨシュアとカレブが担いで帰ったものでもありました。豊かな実りを与えるぶどうの樹があることは、その土地の良さを物語っていたはずです。イエス自身、自らをぶどうの木として語り、信ずる者たちはその枝であると説明しました。良いワインを産するぶどうは、実を食べるぶどうとは種類が違います。日本では食用が圧倒的に多いのが実情ですが、西欧ではワインにするのが殆どです。
 
ぶどうの木の根は、地中深く伸びているそうです。この本によると良いワインを産するふどうの木の根は25mは伸びているのだとか。深い根をもつ木でなければ、良いワインはできないそうです。10年近くもかけて根を伸ばした木の根は、地下深いところから水を吸い上げます。そうでないと、水っぽくコクのないワインしかできません。この水は地下50mまでゆっくり土中の成分を含みながらしみこんでいったもので、それがしみ上がってきて、地下25m先の根から吸い上げられていくとよいのだうです。
 
根の浅い木、安易に水が吸える環境にある木は、良い実をもたらしません。ひともまた、甘やかされたり安易にものが手に入る環境では、良い実を生まないのかもしれません。まだかまだかと水を求めて必死に地下へ潜りに潜った根だからこそ、良い実を実らせると考えるのは如何でしょう。そして、根の深いぶどうの木のほうか、枯れにくく強いといいます。何かしら恵まれすぎた条件の下で呑気に過ごすことが戒められます。そしてそれは、宣教についても同様です。キリストが受け容れられない環境だからこそ、私たちは根を深く伸ばしていくようでありたいものです。しかも深いとは、身を低くするイエスの姿に倣うものでもありましょう。
 
また、良いぶどうの実をならせるためには、剪定をするのがよいとされています。無駄な枝や葉が四方に拡がっていると、良い実に栄養が集まりません。あれこれ枝が伸びていることで混んだ状態はよろしくなく、木自身の状態を良くするためにも、剪定が求められるのだうです。あれこれいろいろなことを気にしすぎて、ひとつとしてまともなことのできない人間の性を思い起こさせます。一途にひとつのことを求めるストイックな姿勢を連想させます。また、どんどん増長する心からくる鼻っ柱をへし折られるような体験が人間には必要だということも思い知らされます。クリスチャン用語でこれを「カット」といいます。ダイヤモンドはカットされ磨かれてこそ輝きます。身を切られるような痛い体験を強いられたとしても、それは自分の余分なところをカットされて、神の目に美しい輝きをもたらすための神の研磨であると見るのは如何でしょう。
 
教会の聖餐式にはよく、ウェルチという名のついたぶどうジュースが用いられます。これは、アメリカの医学博士ウェルチの名に基づいています。1869年、教会の聖餐式にぶどうジュースが使えないかと考えたのです。アメリカは、ピューリタンの信仰から始まった国です。信仰の熱が高まるとき、アルコールの存在が問題となりました。泥酔が悪であることは明確であり、酒は世界で最も強いものではないかという、旧約聖書続編のギリシア語エズラ記にもあるように、人を誤らせるものだと警戒されたのです。それでウェルチ博士の当時、禁酒法運動がたいへん盛んになっており、これが教会の聖餐式のあり方に波紋を投げかけたのです。アルコールのないぶどうジュースなど、簡単なように思えますが、発酵しやすいぶどうを純粋にジュースにするというのは、当時の殺菌技術ではたいへん難しい課題でありました。もし製品となった後に発酵すると、容器が破裂する危険があります。ウェルチ博士は安全なぶどうジュースの開発に成功しました。これが禁酒運動を奉じた教会をはじめとして、爆発的にアメリカで利用されるようになりました。いまでも、ウェルチの名の下に出されているぶどうジュースは濃さや味では定評があります。
 
いまだと、アルコールを受け付けない人や、車の運転をする人のことを考えても、そしてもちろん未成年のいることを考えても、このようなぶどうジュースの利用は、理にかなったことだと考えられています。何よりも、キリストのからだを思うことと、共に食するという出来事のために、教会が二千年にわたり守り続けてきた大切な営みです。また、多くの秘蹟を排除した宗教改革においてですら、洗礼と聖餐は否まなかったというほどに、聖書に照らし合わせても必要な典礼だとされたものです。時に、その聖餐の意味と解釈において教義や神学の点で意見が対立し、グループの分裂や争いが歴史上多々あったことは残念ですが、キリストの平和はこの聖餐の下に決して失われず、2017年には、宗教改革500年記念としてカトリック教会とルーテル教会とがついに合同聖餐式を挙行するに至りました。プロテスタント全般が参加したわけではありませんから、冷ややかに見ている団体もあるかもしれませんが、平和へと続く出来事に無関心でいるのは、なんだか人間臭い気がしないでしょうか。聖餐は人を生かすキリストの指示であったはず。それが人を殺し、分裂させ、批評や冷視をもたらすものであってよいとは思えません。そして同じ枝としてつながる自分の教会の中ではまず、聖餐を通じて、ひとつでありたいと、願わずにはいられません。



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