主日礼拝

2018年1月7日

松の内は、関東方面では今日まででしょうか。関西はもう少し長いとも聞いたことがあります。が、いずれにしてもこれらは「年神」由来の門松の問題です。以前は個人も誕生日ではなく正月に年をとるとしていたことや、数えの年齢の習慣などから、年神という考え方は人の「時」を支配していました。そもそも年末の大掃除というのも、年神の思想に由来していますから、教会で大掃除を年末にするというのは、クリスマス休暇の扱いからすると違和感があることかもしれません。
 
31日が主日礼拝であったことから、1日の元旦礼拝を開かない教会も少なくなかったようです。私は個人的に、教会は開けておくべきではないかという考え方をもっています。誰がいつ教会に救いを求めに来るか知れないからです。ですから礼拝の時刻も都合で変更すべきではなく、定時に迎え入れる備えをしておいて戴きたいと考えます。そのときに、集いづらい信徒のこと、奉仕者がいるかどうか、そうしたことは二の次ではないか、と。いる人がすればよいのであって、極端に言えば牧師一人が誰もいない会堂に向けて説教を語ってもよいとさえ思います。人の都合で催すような「礼拝」を掲げてほしくはないからです。今日は人が少ないから礼拝はしませんとか、まして明日は人が来にくいでしょうから礼拝は休みにしますとか、それは組織経営の視点であって、「礼拝」や「信仰」の事柄とは別の世界の話だと思うのです。
 
尤も、元旦礼拝のあり方は微妙と言えば微妙かもしれませんからそれはとやかく言うつもりはないのですが、中にはごく一部ですが、31日をお休みにした教会もあると聞いています。こうした傾向は、クリスマスをもっと盛大に祝うアメリカではクリスマス前後に連続する主日礼拝について、休みとする教会があると聞いたことがあり、それに匹敵するものかと思われますが、これはどうなんだか。中には、聖書に日曜日に礼拝をしなければならないとは書いていない、といかにも聖書通なことを言い放つ強者もいるのですが、都合のよいところだけ聖書を楯に自分の考え方を正義と主張し、自分に都合の悪い聖書の言葉は無視したり変更したりするという人間の性向はいまに始まったことではありません。ただ、日曜日にしても、昼頃終わるという礼拝時刻の設定は、人の労働の都合の中で決められた習慣ではありましょうから、早朝であったり、午後であったり、また夕べであったり、いろいろな形で集まる機会が定められていたら、それはどれも咎められるようなことはないことでしょう。
 
主と出会い主に救われた者たちが共に主を称え、主のことばに励まされ、信頼の置ける時と場を共有するように集まること。その意味では「無教会」という「集まり」も楽しかったことでしょう。「教会」という訳語について私は、それしかなかったのかなぁと思うことがありますが、こうなった以上、その呼称は仕方ないとしても、そこにこめられた意義については改めて理解する必要があるということになるのでしょう。
 
礼拝というあり方についても、見直しが図られています。西洋近代のあり方を踏襲してきた明治150年の日本の考え方も、変化をしていくことでしょうし、あるいはまた変化してはならない点も弁えておく必要があるはずです。先般メッセージで、アメリカの協力牧師が、日本の教会の礼拝を体験したアメリカ人がしばしば思うのは、「ああ、これは懐かしい礼拝だ」という感覚だと話していました。日本の多くの教会のいまの礼拝スタイルは、アメリカで言えば半世紀前の礼拝に近いというのです。
 
礼拝たるもの。また、説教たるもの。また、賛美もそう。変化は否めません。若い世代の感覚も尊重する面が多々あります。ひとは、自分が生まれ育った世界の価値観から外れたものには馴染みにくく、肯定しづらいという傾向性があります。「わしはこれこれしか正しいと認めない」という頑固さは、少なくとも企業だと成立しないことはよく分かっているおとなたちが、こと教会になると、すっかり自分中心に囚われてしまっている、という姿がそこかしこに見られるのは残念です。聖書をよく学びつつ、とくにそのスピリットに気をつけながら、先行する研究の声によく耳を傾けて、より信仰において神に近い思いを抱くことができるようなスタイルへと前進することができたら、変われたら、と願ってやみません。
 
変わるべきものと、変わってはいけないものとの見極めは、非常に難しいものではありますが、えてして、そのどちらであるべきかを、感情で決めようとする傾向が私たちにはあります。もしかすると、アダムとエバの最初の過ちも、そのあたりにあったと理解することができるかもしれません。「ほんとうに」や「正しさ」を安易に原理とすることは避けたいとは思いますが、イエスが私たちに何を求めていたのかを想起しながら、イエスという道をたどることを選ぶ自由を、私たちは行使するようにいまここに置かれているのではないでしょうか。



沈黙の声にもどります       トップページにもどります