一年の始め

2018年1月1日

それは、あなたの神、主が御心にかけ、あなたの神、主が年の初めから年の終わりまで、常に目を注いでおられる土地である。(申命記11:12)
 
一年という始まりを人間は定めました。旧約の律法によると、主が年の初めを定めているようにも聞こえます。本来時は区切れるとは思えないのですが、大いなる権力者が時をも支配していることを告げるために、王の名で数えることが世界各地でなされていました。それを神と位置づけるなら、もちろんさして悪いことではないでしょう。
 
地球が太陽に比して元の位置に戻るまでには、365日と1/4弱の時間を要します。これを月の形の変化に因む形で一カ月を決め、その中でローマ皇帝のいわばわがままで31日の月が作られ、年末扱いの2月(しばらくは名前すらなかった)からその日を奪ったため、2月が30日を下回るようになってしまいます。このあたりのネタは、子どもたちに話して聞かせるために頭の中に常備しているのですが、ここではやめておきます。ともかく、キリストを基準として時が刻まれている今の時代を喜ばしく思います。
 
時を支配したいというのは、人が究極的に願うところでした。が、どうやらそれは叶いません。その時がどう流れているのか――そもそも「流れている」というのはどういうことなのか――、この問いも、人の歴史が続く限り問われ続けることでしょう。
 
年の初めから年の終わりまで。不思議ですね。終わりのその極限的な終わりは、初めとリンクしているのです。終わるところに初めがある。クリスチャンなら、誰でもピンときます。古き自分の終わるところが、新しい命の始まりであったことに。そして十字架の上にぼろぼろのさらしものとされて血に染んだ子羊イエスの死が、復活の命につながったことに。
 
かつて正月に年をとる仕組みであった頃には、自分の誕生日すら祝う対象ではなかったともいいます。主イエスの誕生日も、そんなふうにそもそも祝う習慣も気にすることもなかったのかもしれません。ただし12歳とはっきり記すルカ伝の記事がありますから、何らかの形で年齢は刻まれていたはずです。それが果たして、年の初めということだったのか、それは寡聞にして知りません。
 
クリスマスも、誕生日という意味で説明するのは、もしかすると間違っていたのかもしれません。主イエスが確かにすでに来てくださったこと、そしていつか再び来られるということ。このキリストを礼拝する機会として、クリスマスを感謝し、祝福いたしましょう。まだ十分にクリスマス・シーズンです。シメオンやアンナが出会おうとしている時ではありませんか。ここから、私たちの教会もまた、年齢を刻むのです。何かが終わり、そこから何かが始まる。振り返ると塩の柱になるかもしれませんが、恵みは数えましょう。ここから、始まります。新たなスタートを切ることができます。
 
どんなに、いままて傷ついていたとしても。どんなに、忘れようにも消え去らない過去があったとしても。それでも、光は前から当たるのです。主が目を注いでおられるのですから。



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