さばきとゆるし

2017年12月25日

聖書は多面性をもっています。数学の公式のように、結果が一筋にひとつに決まることはできにくい性格をもつということです。それが我慢ならない人は、「矛盾」と呼びます。しかしその「矛盾」とは、人間の論理と思考から判定したものに過ぎません。そもそもイエスは、そうした人間の論理と思考から行き着いた律法学者などエリートたちの解釈を超えた神の論理(という語では適用しにくいけれども)を示したはずでした。私たち人間は、見えないままに象の一部を触っただけで、象とはこういうものだと決めつけようとしているような知恵しか持ち合わせていないのです。
 
信仰者は、単独で神の前に立つでしょう。しかし、ずっと単独でいるわけではありません。信仰者は同じ時と場に置かれた者たちと共に民を形成し、群れをつくります。民のための救いの知らせがクリスマスにもたらされたのはそのためです。こうして共同体が編まれ、それをしばしば「教会」と呼びます。
 
教会は、義なる神のもとにあります。神の義を求める者たちがそこにいて、清さに憧れる人間の望みを叶えようとします。
 
教会は、赦しの中で結びつきます。互いに赦し合うように招かれた者たちは、過去のことは終わったこととして、未来を生きるために、赦し交わることを求められています。
 
この二つの関係は、しばしば反目します。前者を貫けば、ファリサイ派や律法学者たちと同じことになるでしょう。後者を貫けば、コリント教会のようになるでしょう。
 
私たちは、自分の目に見えるところを正当化するための論理を構築しようとすると、一つの真理だけを絶対視しがちになります。それは、自分の立つところを常に真理としたくなる傾向性に基づきます。旧来の神学的対立も、そういう理解の中で見つめることができますし、いまもなお私たち自身が巻き込まれている対立と拒絶でさえ、根はそういうところにあるようにも思われます。
 
だからといって、「バランスが大切」と達観して済む問題でもありません。こうなると、肢体のはたらきの違いとしてそれぞれを神に委ねて、己が道を歩むことが、せいぜいできることであるのかもしれません。何かしら、どうしても自分の正義感からして許せないということが、あるかもしれませんし、そんなに厳しい措置を執らなくてもよいのではないかと思うことが、あるかもしれません。
 
ただ、真理はただひとりのお方です。そこさえピントに狂いがないとすれば、悪い出来事の向こうにも自分の神がちゃんと立っていて、その神との間にその事柄を置いて、神との関係を保つようにしていたいものだと思います。どうしてもその間に、気に入らない存在があるとしても、そこにこそ、キリストがいてくださるのだと分かるならば、神の真実に、益々信頼できる契機になるように思うのです。



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