2017年12月17日

クリスマスのメッセージ。私たちの生活が、人生が、命が、「聖」と「世俗」などで分けられるはずがない、聖なる戦争と世俗的な戦争、聖なる貧困と世俗的な貧困などというものがあるわけではないのだ。そこに必要なのは救い主イエスであるだけ、と目を向けさせて戴きました。
 
「聖」とは何でしょう。「聖書」を私たちは中核にもっていますから、ある意味で最も大切な語と考えているはずです(原語で「聖」が付されるのを見ることは殆どないはずですが)。しかし、日本語だと「きよい」ことだと第一に浮かんでくるかもしれません。しかし聖書の中の「聖」は違う基礎をもっていると思われます。これについて考察を始めると、一冊の本くらいの分量になりそうですから、詳しいことはお調べ戴くとして、ざっくりとまいりましょう。
 
旧約聖書で「聖」はコーデシュといい、諸理解はあるものの、「分離」のニュアンスを保っていると捉えられています。その意味で、この社会の人間臭い営みから切り離されているものを思わせます。早い話、神こそが「聖」であるのでした。この聖なる神を見た者は死ぬとまで言われていました。新約聖書で「聖」はハギオスといい、旧約の概念をギリシア語に訳したものと見られますが、神そのものを「聖」とするよりも、信徒を「聖徒」と選び召し出されたキリスト者を指すことが出てきます。しかし最も聖であるとされるのはキリストであり、また聖霊でした。これは、確かに人ではなく神のあり方ではあるのでしょうが、より人間に接触し、あるいは人の中に住まうものとしても「聖」が描かれているような印象を与えます。
 
難しい概念は、その対立概念を想定すると、理解が進む場合があります。メッセージでは、「世俗的」という対立概念を用いて、効果的にこれを感じさせていたようにも思われます。その上で、こうした対立に制限されはしない、キリストの存在と業を突きつけるように私は受け止めていました。
 
人間の原理に基づいた、自分中心の論理を重ねていくあらゆる働きの中に世俗というものを見るのなら、聖はそれを超えたもので、私たちの日常にないもの、理想に過ぎないもののようにも見えるかもしれません。まさに「聖」は「きよい」ことであるのです。人間の欲に満ちた世界にはないもの、そこから分離された神の支配する世界は、きよいに違いありません。
 
こうして、聖なる神と、世俗的な人間との間には、明確な境界線が引かれます。だから、これを越境しようとする者は、死なねばならぬと旧約世界では考えられていたのかもしれません。また、神殿の至聖所に入るところには垂れ幕があり、そこを特別に潜ることを許されたのは大祭司だけで、しかも年に一度、民の罪を贖うための儀式をするときでした。これが新約聖書のヘブライ書では、大祭司イエスが、年に一度ではなく、自身をいけにえとして献げることで贖いを完遂したとされています。このイエスが「聖なる者」と呼ばれることを天使がマリアに告げていたことも思い起こされます。
 
しかし新約を掲げる中でも、ひとは神の前に敬虔であろうとするとき、時に自分を追い詰めるかのように、聖人への道を修めようとすることがありました。世俗のすべてを捨てて出家し、完徳を目指すことで、神に近づけるとしたのです。せっかくイエスが神と人との接点を自らの血でつくり関係をつないだというのに、恰も人間の修行によって、神と人との境を超えようとしているかのようにも見えました。これがちょうど16日から17日にかけてのニュースで、オーストラリアのキリスト教関連団体で性的虐待を受けた被害者がいま4000人以上いる、と挙がっていたことと無関係ではないように私には思われました。つまり、清く正しくだけで貫こうとする世界の中に、歪みが生じるのはある意味で当然ではないだろうか、それは神と人ととの境界線を越えようと無理なことを求めたせいではないだろうか、と。
 
宗教改革500年、今年はルターが注目されました。もちろんルターは、贖宥状への疑問も大きかったのですが、自ら膝から血を流すほどの修行をしてもなお救われた確信がもてなかった経験からも、福音の発見に向かうこととなったと見られています。尤も、だからルターを偶像視することも適切ではありません。農民戦争で殺せと弾圧を呼びかけた責任は免れないと思われますし、ユダヤ人に対する態度も問われなければならないでしょう。また結果的にですが、プロテスタントの禁欲的な職業召命観が、却ってエコノミック・アニマルへの道を備えてしまったことも、私たちは受け止めていく必要があると思います。
 
しかしルターは、「聖」が分離であるとすることが、神と人との間を越境しようとすることの危険性は気づいていました。ですから、それらを結ぶキリストという一点に、さらに言えば十字架という交差の中に、神と人とをつなぐ唯一のものを見たのでした。「聖」に相応しいキリストと霊とが、神と人との分断をつなぐ架け橋であるとしたのでした。「聖」を単純に「きよい」理想だけで掲げてはならないという教訓を私たちは受けています。
 
元に戻りましょう。聖なる貧困などない、との訴えがありました。日本語には美徳の言葉として「清貧」というものがあります。バブル経済が弾けた頃、『清貧の思想』という本がよく売れました。日本人の心の奥をくすぐる考えだったことでしょう。但し問題は、この「清貧」をしばしば他人に適用するという点のおかしさが気づかれにくいということです。自分に対して適用するなら「清貧」もよいだろうが、あなたは貧しいが清いからよいではないか、と他人に向けて宛う構造が、いかにも正統的なものと見過ごされてしまうのです。やっぱり、聖なる貧困という考えを徳のあるように掲げるわけにはゆきません。
 
聖なる戦争というものもない、とも断言されていました。そんなものがあるだろうか、とお思いでしょうか。およそ戦争の多くはこれだったと言えます。宗教的な背景により「聖」と呼ばれるのだとすれば、古代の戦争は神の名を掲げての戦争だったはずです。負けた側の神は無力だったために滅びます。ただ、イスラエルの神については、負けた民に知恵がありました。この敗戦は、神の無力によるのではなく、自分たち人間が神を信じなかったからだ、自分たちのせいだ、として、イスラエルの神に責任をかぶせることをしなかったのです。しかし、誤訳の部類に数える場合もありますが「聖戦」と訳されるジハードは、イスラムの正統な奮闘を指すものでした。キリスト教側でも、十字軍はこの部類に数えられないでしょうか。そして、日本軍もまた、自らの正義を自ら基礎づけるための論理を国家神道の中で定立させようとしていた点をここに問うことは、不適切だと言われるでしょうか。このときは、戦争協力した日本基督教団の例さえありました。
 
私たちは、「聖」という語を隠れ蓑にして、自分の中の欲望を、あるいは超越したい欲求を、正当化したくなることがある、そのように思います。また歪んだ論理ではあるでしょうが、自分は聖ではない、と強調することで、相手から、そんなことはない、聖である、と言われたがる心理があるかもしれません。それならいっそ、「聖」も「世俗」もなくせばいい。なくなればいい。クリスマスはキリストがこの世に来られたという出来事を記念する礼拝ですが、「聖夜」も、きよいものたちだけのものと決めつけない方がいいのです。
 
確かにクリスマスは、「特別に」とっておいた夜ではありましょう。私たちは、神の前に「特別に分けておく」ものを用意すべきことがあります。献げ物然り、時間然り。主の日としての日曜日は、私たちは自分の労力というよりもむしろ時間を、神に献げているのかもしれません。献げるためのとっておきのものとして、私たちはそれぞれに、神への献げ物をもっています。必ず、何かがあります。超越者とをつなぐ特異点としてのキリストがプレゼントしてくれた無尽蔵な恵みに対して、何らお応えできようなものはありませんが、私の中の人間の(これは相当に厄介なものなのですが)肉の思いが消えるように、願いを献げましょう。あるいはもうキリストの許にある証書がその無効を宣言していると信じているのであれば、肉的なものが亡霊のように見えてくる病が癒されるように、祈りたいと思います。そこに、神が私たちを「分け離して」くださる「聖」の意味が、見え隠れするかもしれませんから。



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