「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」

2017年12月14日

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(ルカ1:28)
 
いわゆる受胎告知の記事の中にに「おめでとう」という語があります。いったいどういう原語が「おめでとう」と訳されているのでしょうか。
 
カタカナでいきますが「カイレ」という語です。明らかに挨拶の言葉です。しかし「おめでとう」と決まっているわけではありません。意味は「喜ぶ」というような感じです。命令法の形をとり、一人の相手に向けて発されます。「喜べ」の気持ちでしょうが、「ごきげんよう」とでも言いましょうか、しかしあらゆる挨拶がこの一言で可能で、出会うにも別れるにも朝でも夜でも何でも使える語だそうです。なお、この語は新約聖書には他に4回出てきております。マタイ26:49,マタイ27:29,マルコ15:18,ヨハネ19:3です。その多くは「万歳」です。よろしかったら、聖書を開いてみてください。
 
この「カイレ」を新共同訳の訳者はマリアの受胎告知の場面で「おめでとう」と訳しました。この箇所はほかには「こんにちは」「ごきげんよう」「めでたし」「喜びなさい」などいろいろな訳があります。またこうした別の日本語でこの場面を読むと、違った印象で読めるかもしれませんね。
 
同じ語ですが、一人ではなく複数の相手に向けてこの語を言うと「カイレテ」となります。これは、蓋の開いた墓で御使いにより弟子たちに知らせよと命じられた女たちが、走り戻る途中でイエスが姿を現して、最初に声をかけた言葉です。「おはよう」と新共同訳では訳されていますが、ほかには「ごきげんよう」や「ごきげんはいかがです」、「安かれ」や「平安あれ」といったものがあります。
 
「カイレテ」は新約聖書では、「喜べ」という自然な命令文によく使われています。「いつも喜べ」という具合です。全部で11箇所あるうち、挨拶としては、おそらくこの場面の用法だけでしょう。
 
「喜べ」の命令がマリアにもたらされていました。それは確かに挨拶でした。けれども、とても喜べないような出来事について御使いは「喜べ」といきなりぶつけてきたのです。神を信頼するというのは、どれほどのことなのか、改めて思い知らされます。
 
そして、クリスマスをさっさと片づけてお正月、などと決め込む私たち日本人ですが、「おめでとう」との挨拶を、教会ではもっと、クリスマスの出来事として交わすものでありたいと願うのですが、如何でしょうか。

「恵まれた方」と天使はマリアに呼びかけました。呼びかけの語ですが、元の意味合いは、全く自由な心から愛し贈り物を気前よく与える、というようなところと言えましょうか。この語は「カリス」という語からできています。これは「恵み」と訳されます。功績によらずただ外から無条件に与えられるものをいいます。これを名詞とすると「カリスマ」となり、神から与えられたものを表す語となります。そして、「方」という語はありません。形容詞や分詞などだけで、そうした人や物を表すことは普通の用法です。
 
ルカの用い方ですから、当然パウロの思想と何らかの形で関係していることでしょう。パウロにおいて「恵み」はひときわ重要な捉え方となっています。それは深入りしませんが、パウロがこの「恵み」とペアにして「平安」とを以て、しばしば挨拶している点は思い出しておきたいと思います。神は平安あるいは平和という祝福を、どうやって与えるのかというと、実に気前よく、私たちの状態や価値とは無関係にお与えになる、というふうに考えているということでしょう。
 
見合う報いとして与えられるのではなく、自由な神の選択と意志から与えられるという構造。マリアのもとにもたらされたこの神の、人の目にはお節介ともとれるプレゼントは、私たちのもとへも届けられているでしょうか。
 
マリアに告げられた「恵まれた」は、完了形の分詞です。かつて与えられてそれで終わりというわけではありません。しかしまた、いま突然に恵まれたというのでもないでしょう。振り返れば私には恵みが注がれていました。いま気づいたかもしれませんが、神からの恵みはここまで信実に私を導いてきていたのです。だから、ここで与えられる理不尽な事情にも、信頼を寄せることができるし、そうするように要請されているに違いありません。

「主があなたと共におられる」というところまで、天使はここまでマリアに一気に呼びかけました。まず告げるべきことは、これらのことでした。

ここで思い起こすのは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)という復活のイエスのメッセージです。「あなた」と「あなたがた」という複数形の違いのほか、当然主語が「主」と「わたし」と変わります。マタイのほうでわざわざ「わたし」が出されているのは、強調と考えられますが、その他に、マタイには「いる」があるのに対し、ルカの受胎告知の場面では「おられる」の語は実はありません。これはなくてもそのように通じるからであって、マタイのように「いる」が出されているほうが特別な状況をにおわせていることになります。間に「あなたがたと共に」が挟まる形とはいえ、「私はある」という神の御名とも呼べる絶対的存在の宣言を感じることも可能だからです。
 
従って、ルカの場合に「おられる」は明確に時制を表に出していることにはなりませんが、やはりこれもまた、これまでもおられたし今もおられるし、これからもおられるのだというメッセージとして受け止めたいものだと思います。そして、その呼びかけが、いま私のところに向けられているという読み方が許されるのが、聖書をいまに読むキリストにある者の恵みであり、特権です。聖書の言葉が自分への呼びかけであるとして受け止められることこそが、キリスト者の条件であるとも言えるでしょう。
 
 
こうして、マリアへの天使の最初の呼びかけだけで、クリスマスを迎えるひとつの姿勢を聴くことができたことを感謝します。
 
喜べ。神の自由な選びを向けられたあなたは、共に神がいつでもいてくださる。これからもずっとであって、片時もあなたを離れない。この先起こることは、人の目にはおぞましいことかもしれないが、恐れることはない。あなたを通して偉大な出来事がもたらされることになる。神自らそれを望み、あなたを選んだのだから。あなたは神から絶大な贈り物を与えられたのだ。



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