アドヴェント、そして「待つ」こと

2017年12月2日

2017年は12月3日を以て、アドヴェントの期間(待降節などと訳す)に入ります。クリスマスを迎えるシーズンの到来です。
 
クリスマスが、イエスの誕生日だというわけでないことは、すでに常識となっていますが、イエスがこの世に生まれたということを記念する機会として祝うという理解で祝っていると考えましょうか。受肉という語で取り沙汰されますが、神が人となられた、という信じられないような出来事をそれは意味します。よく、復活が信じられないと言われますが、考えてみれば、神が人となるということのほうが、よほど信じられないようなものではないでしょうか。
 
いえ、神は全能だから人にだってなれるでしょう? おやおや、それはもうすでに信仰の域に入っていますね。世の人々がそのように答えてくれたら、もう拍手喝采です。但し、気をつけなければならないのは、日本では偉人を「神」と呼ぶ点です。ネットでもスポーツでも、「神」という語が乱れ飛びますし、○○の神様、という言い方は普通に通ります。果たして聖書の訳で「God(等)」が「神」でよかったのかどうか、も問われることになるでしょう。
 
それはともかく、その神を「待つ」思いを、約一カ月にわたり抱き続けてその「時」を見つめる期間として、かなり古い時代から、設定されていたと見られているのが、アドヴェントです。キリストの「到来」を意味する語からそういうラテン語で呼ばれるようになりました。興味をお持ちになった方は、いろいろ調べてみてください。
 
ここではひとつ、「待つ」ことについて少し立ち止まってみましょう。いま、人はなかなか「待つ」ことができなくなっています。20秒早く出発したことを詫びた鉄道会社が世界的に注目されましたが、列車が1分遅れることを駅でアナウンスするのが日本社会です。この遅れをよしとしない社会と会社が、あの尼崎の鉄道事故を起こしたのです。レジで並ぶのにさえ苛々し、LINEの返事が遅いからといじめ、ネットの表示がもたつくと腹を立てる。SNSやブログでさえ、短い文しか目に留める気持ちをもてないという日常がありませんか。
 
「待つ」ことのできる代表に、子どもがいます。お母さんが迎えに来るのを、じっと待っています。おやつをくれるのを、待つことができます。自分でどうのこうのと行動を起こすよりも、誰かが来てやってくれるのを、待つのが子どもです。この子どものような者こそが、神の国の市民なのだ、とイエス・キリストは確かに告げました。
 
クリスチャンは、基本的に「待つ」人々です。自分で何か急いでしなければならないという焦りをもつのでなく、神が何をしてくださるか、に中心を置きます。もちろん、いざ自分が行動を起こすべき場合は弁えています。すべてを傍観するのではありません。しかし、神を待つのが通常の生き方でありましょうし、究極的には神の現れを待ち続けていることになります。そのクリスチャンが、この限られた期間でありながら、「待つ」ことの意味を噛みしめるように生きるという機会は、とてもよい知恵であったように思います。
 
あなたはいま、近いところで、何を待っていますか。待てていますか。そして、遠いところで、何を待っていますか。灯火の油を、備えているでしょうか。光を掲げて、いるでしょうか。


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