子連れの議員

2017年11月26日

正論という言葉があります。正しいのです。筋が通っているのです。しかし、語感として、あまり良い印象を与えない語です。
 
熊本市議で11月22日に起きたことが報じられて、話題に上っています。この「事件」で誰が正しいとか、間違っているとか、そんなことを私が判断する気持ちはありません。ここから感じたことを記します。
 
熊本市議会議員は49人いて、おそらく女性議員は5人だと思われます。当該の女性議員のほかに女性は4人いたことになりますが、その割合は1割にも及びません。議会の男性たちは、規則を以て、全く子連れの着座を認めませんでした。まさに、正論でした。ただし、秘密会では傍聴人や指定されざる者のほかは会議室を退去させられる規則だそうですが、赤子が「傍聴人」であるかは適用次第でしょうし、指定すれば可能であったかもしれません。
 
聴覚障害者は自動車の運転は危険だから運転免許を取得できない。心神耗弱と同様であるから、住宅ローンの利用はできない。――1970年代までそう考えられ、適用されていました。何かしら聴者社会の論理ではすんなりできない事情があったかもしれませんが、何らかの方法がないかという検討もなく、一方的にそのように「法」を多数派の聴者が決めていました。その方法があるということは、いまそうした決まりが存在しないことからして、真実であったことが明らかになっています。
 
羊飼いたちは、安息日にも羊の世話という「仕事」をしなければなりませんでした。羊を追って1km以上歩かなければなりませんでした。これらはユダヤの「法」に違反しました。それで、羊飼いはいまでいう基本的人権とは程遠い社会領域に押し寄せられており、「法」を守ることのできるエリートたちから軽蔑されていました。このエリートたちが、自分たちは守れる「法」を掲げて、その生活上守れない人を「罪人」扱いしたのでした。
 
「法」だから守れない者が悪いのだ。それは正論です。「法」に照らし合わせれば、ファリサイ派は何も間違ったことを言っていません。しかしイエスは、そうではない、ということを示すために闘い、そして殺されました。けれどもその示したことが死滅しなかったことを、聖書は伝えています。クリスチャンは、それを信じ、支援する者たちであると思います。実際、「法」はこの思想をどこかで踏まえて、変化してきました。成立しているかどうかは別として、人権思想が現れました。当時あった「法」がすべてではなくて、「法」のほうが変化するという歴史を、人類は選ぶことができました。
 
ですから、多数決は数が多いから勝ちだ、というような原始的な判定で正義を決めるようなふうであってほしくはないと思います。
 
多数派の論理だけが正しいのであれば、「いじめ」は正しい行為です。
多数派の生活だけが正しいのであれば、病者や障害者は間違った人間です。
多数派の思想だけが正しいのであれば、クリスチャンは世の中から消えるべきです。
 
果たしてあの議場に、自ら赤ちゃんを抱えて睡眠不足の毎日を送り、おむつを手ずから換え、離乳食を煮込みつぶしてこしらえ、乗物の中で泣き出した子のために降りて泣きながら歩いた、というような人が、どれほどいたでしょうか。預けることひとつに母親が胸の痛みを覚えるというような心理を想像した人がいたでしょうか。誰もがかつては、その赤ちゃんであったのです。依然として、あれは公務執行妨害だからけしからんとか、最初から預ければよかったのだとか、一蹴する男性の意見がネットで散見します。残念です。甘ったれるなとか、自分の職場に赤ちゃんを連れてきたら困るとか言って、自分本位な視点で正義をぶちまけるだけの王様気取りの人もいます。誰も、自分の感じ方が決定的に普遍的なのではありません。ここから私たちが何に気づかされ、どのように「法」を改めたり、適用したりしていくことができるのか、問われているような気がしてなりません。
 
また、かの市議会にしても、このような措置を平然ととったままにしておく熊本市議会を見て、人々は、要するにこの議会は、弱い立場の人を迷惑がり、押しつぶすことを熱心にするのだ、というふうに見られることは、得策ではないと思われます。福祉政策だ、人々のためだ、というものがただの建前であり、事情を抱えて相談を依頼した者を無視してその人の行為を断罪するというように、議員の多数派の考えに従わない者は、実質はこのように取り扱うことになるのだぞ、と宣伝してしまったことに気づくことが賢明ではないか、と私は感じました。


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