宗教改革500年

2017年10月31日


まさに稀有な記念日です。こうした時に遭遇するのはなんとも言えない喜びです。数年前から騒がれ始めたものの、日本においてはどれほどの祝祭にもならない雰囲気のようで、プロテスタントの中でも、あれはルター派だけのことだ、と関心を寄せない人々もいました。
 
記念日はただの日付の問題だ、という意見もあるでしょう。どうせ任意に閏年を定めたり、それも400年に3回抜いたりと取り決めたものに過ぎないわけで、「日」というものに囚われる人もいればそうでない人もいる、と書簡にすでに記されているのも尤もなことだと言えるでしょう。
 
しかし、教会はその記念のために、聖餐を止むことなく続けています。イエスの記念として行うよう命じられたこと、またナルドの油を注いだ女の出来事は記念となる、とされたこと、その他ユダヤの祭の記念をも含めると、多くの記念が聖書の中で重んじられていることになります。
 
学生時代にはよく買っていましたが、とんと読まなくなった雑誌に、岩波書店の『思想』があります。これが先に、宗教改革500年を特集していました。教会史ではありません。テーマは、社会史でした。そういう側面から見るのも面白いか、と、本当に久しぶりに手にしてみました。
 
ルターの教育論を興味深く見ましたが、皇帝や国政の話は、私にはぴんときませんでした。やっぱり私は、権力とか金回りとかいう話には関心がないのだなぁと改めて思い知らされました。その点、医学の話は非常に面白いと感じました。ヴェサリウスの医学説が、ルターと同時代に出てきているのですが、この中に、宗教改革の精神を読み取るという意欲的な論文でした。これが私には一番わくわくされられたのです。
 
従来絶対視されていた権威あるガレノスの人体研究の説に対して、事実で対抗したヴェサリウスでしたが、それを覆すのは事実だけでは難しかったというのです。一旦権威とされたものは、なかなか崩れません。それに対する批判は認められないように、権威者のみならば、その周辺も加担してその権威を護ります。思えばこれが人間の性なのでしょう。若いころは急進的で権威に楯突いた人も、年齢を重ねてついに自分が権威に就いたとき、若い人を認められなくなっていきます。だから「今の若い者は……」というぼやきが延々と繰り返されていくのです。
 
ルターの宗教改革も、ルターの意図したことかどうかはさておくとして、結果的に、国家と宗教(教会)とが結びついていく道を築いていくこととなりました。いまなお、ドイツ(だけではないが)はその点で特殊な形態をとっています。教会税や公務員としての牧師などは、日本では考えられないことですし、それでよいのかどうか、考えさせられます。もしかするとこの宗教改革500年を記念としないのは、そうした点にプロテストするからなのかしら、などとも邪推しつつ、私はとりあえず、この歴史をどう省み、いまどう活かすか、気にしておきたいものだと思います。


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もうひとつ、宗教改革500年に関して。
 
ところで、私が先日「しくった!」と思ったのは、NHKラジオで10月から始まっていた講座に完全に気づいていなかったことを知ったときでした。「カルチャーラジオ歴史再発見」という枠で、「ルターと宗教改革500年」という講座が、12月までのクールで放送され始めていたのです。担当は、ルーテル学院大学教授・江口再起先生。
 
放送を聞くだけなら、なんとかストリーミングで補えますが、テキストは売り切れたら入手が難しくなります。Amazonで見ると、定価の二倍ほどの価格がついています。まずいと思い、書店に飛び込むと、ありました。助かりました。
 
確かに、一般向けの内容ですので、神学的にどうだとか、学術的価値がどうだとか言われると、当たり障りのない内容でしかない、と見る向きもあるかもしれません。しかし、放送の電波に乗せ、テキストを相当の宣伝費もかけて全書店に配するとなると、それだけ内容は吟味されたものであるに違いありません。資料などもよく検討され、何よりも、分かりやすい(というのは質を落としたという意味と同じではない)解説が施されています。ものをお書きになる方ならば同意してくださると思いますが、難しい事柄を分かりやすく書くということほど難しいことはありません。概して、こうした講座のテキストは、その点で見事な成果をもたらしてくれています。また、実際そこには、独自の観点や学説が展開されている、ということもありうることなのです。
 
今回のテキストは、まだ全部読み終えていません。しかし、視聴者や読者に考えてもらいたいテーマは最初に明らかにしてありますし、理解のために親切な解説であることは十分期待できそうです。


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