バタフライ効果

2017年10月15日


要請があって、朝の勤務をこなし、午後の礼拝のために帰宅する途中のことでした。電車で4人向かいの席の通路側に座っていた私は、ある説教集に没頭していました。ただ、斜向かいの若い女性のイヤホンから漏れる音が聞こえ、それがうるさいとは思いませんでしたが、こんなふうだと将来難聴になるのではないかと案じる気持ちはありました。
 
人がやや混んできて、ふと右に、ガンが見えました。三歳くらいの男の子の右手にしっかりと握られた、オモチャの鉄砲です。私は瞬間的に腰を上げ、その子のお母さんを見上げて手招きし、立ち上がりました。
 
と、私の正面に座っていた婦人が、私に一歩遅れて立ち上がると、私をまるで突き飛ばすくらいの勢いで手で私を制し、「いいから」と心で言うような形で、その子を座らせようとしました。私は負けました。
 
するとまた、あのイヤホンの女性も立ち上がり、2人はするすると通路に出てしまいました。私は座らざるをえませんでした。そして、円い目をした男の子が窓際に座り、お母さんが礼を言いながら私の向かいに座りました。
 
さらに今度は面白いことが起こりました。私の向かいの右の席にいた若い男性が、今度はその若い女性に「どうぞ」と言って立ち上がり、ドアに近いほうに行ってしまったのです。確かにそこは、優先席の白いカバーが付いていました。居心地が悪かったのかどうなのか知りませんが、とにかく男性はそこを去り、かの女性が結局そこに座りました。
 
小さな男の子が、世界を変えました。この光景を私は、微笑ましく見るとともに、人は案外、心の中に何かをしたい気持ちをもっていて、チャンスがあれば次々とビリヤードの玉のように動いていく可能性を秘めているものなのかもしれない、と思いました。全く何も動かないような世の中でも、何かが動いたとき、山でも動くのではないか、と。
 
もちろん、それは悪いように傾いていく恐れもあります。しかし、善いことへと動く希望も持ちたいと思うのでした。問題は、それがどうやって始まるか、ということです。いえ、誰が始めるか、ということです。


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