しよんなか

2017年10月15日


しよんなか。
 
博多で耳に響く言葉のひとつ。ふつう「よ」にアクセントがあります。「仕方がない」と聞けば、なるほどと思われる人もいることでしょう。事ある毎に、博多っ子はこの語を口にします。
 
仕方がない。何か方法を新たに持ち出すことができない。このままでいい。このまま運命を受け容れよう。どんなふうに説明されるかは、その時どきの文脈次第でしょうが、現実には逆らえない様子を表す言葉です。
 
しよんなかねえ。
 
なんの情報にもなっていないような言葉ですが、何か人を罰さなければならないことになったが、もうそんなことはせず許そう、といった場面でも使われ得るフレーズです。これなら、寛容の心を表すために使うこともできそうです。
 
しかしまた、世情について用いると、いまの政治のまま変革を起こすなどもってのほかで、このようなままで進むことをよしとしよう、というふうにも聞こえます。
 
自分が何を手に入れようと、背伸びをしたり、努力をしたりすることから、逃げるときの言い訳にも使えると言えば、お叱りを受けるでしょうか。わざわざ変えようとする意志をもたないことは、一種の諦めですが、それでもいい、という是認の心をうまく代弁する言い回しであるかもしれません。あるいは、諦観とでも言うべきでしょうか。
 
強い権力をもつ者に対して、不満ではあるけれど、逆らうことができないという立場に置かれた庶民の生活のために、生まれた表現であるのでしょうか。おとなしく現状に従うしかないということを正当化するための知恵であるのでしょうか。
 
主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」(出エジプト記17:1-3)
 
この後モーセは主に伺いを立て、命じられるままに杖で岩を打ち、水を出します。そしてモーセはその場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けました。新旧約聖書を通じて、「しかたない」の日本語が新共同訳聖書で使われているのは、唯一ここだけです(旧約聖書続編には、さりげない表現だが2箇所ある。なお「仕様がない」の類もひとつもない)。民は喉が渇いてしかたない。これは、諦めの意味ではありません。ということは、博多弁の「しよんなか」の境地は、聖書には描かれていないとも理解できます。もちろん、これは邦訳に過ぎませんから、そういうニュアンスの語がないということを証拠立てることはできませんが、少なくとも新共同訳聖書の訳者の中には、聖書の語を訳すときに、諦めの意味で「しかたない」を使うことをよしとしたことはなかったのだ、ということになります。
 
聖書は、仏教だったらいくらでも出てきそうな諦観が、ひとつもない。私たち日本人は、勘違いをしていなかったか、省みる必要があります。神の命令に従うとは、神の言うこと、神の言葉に対して、それに従うしかない、あるいは神の定めた運命に従うしかないのた、そうした「しかたない」のいかにも似合いそうな思想は、微塵もないのです。
 
旧約聖書の預言者やリーダーは、しばしば神に立ち向かい、文句を言ったり、食い下がったりして、神とサシで対話をしています。神がそう決めたのなら仕方がありません、などと、日本人から見れば殊勝で従順な態度をとるのではなく、荒野で頼ったり隠れたりするものが何もない環境において、もはや神の前に出るしかないといった状況において立ち上がり、神と渡り合うような意見をぶつける場面をしばしば見ます。
 
驚くことに、「あきらめる」の語もありません。唯一、ダビデについて、「アムノンの死をあきらめた王の心は、アブサロムを求めていた」(サムエル記下13:39)とあるだけです(シラ書に他にひとつある)。つくづく、聖書は日本人の感情とは違う何かを背景としていると畏れ入ります。祈り続けるにしても、待ち続けるにしても、イスラエルの精神に、諦めはないのです。だからまた、二千年の時を経て、シオンに集うことにもなったのでしょう。政治的にそれがどうとかいう以前の問題として。
 
勇気が出てきませんか。信仰を支える何かを感じませんか。私たちは、弱いものではあるのですが、決して諦めのないところに置かれているのです。諦める必要がないのです。肉の目には死により終わるかのように見える地上生涯には、永遠の命が与えられているのです。永遠という時の中では、無限という概念が数論の中で常識外の結論をもたらすように、どんなことでも神のことばにあることならば実現に至るだけの待機が可能になっているはずです。遅々とした歩みでも、ゴールに至る、タイムアウトのない試合運びができるようになっている世界なのです。
 
もう、かっこつける必要もありません。気取って、人生ははかない、などと嘯くのが如何に神を知らないことなのか、お分かりですね。十字架の前にイエスですら、祈りの中で格闘していました。諦めてはいなかったのです。十字架の予告は諦めなどではなく、十字架の言葉は諦めに似たものなどひとつもなく、復活の先に、しかたないなどと兄弟たちに言わせない世界への道を準備してくださっていました。こんなにも愛されている私たちが、いったい何を、しかたないなどとぼやく必要がありましょうか。
 
「しよんなか」などと口にする暇があったら、「なんかしよ」。


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