みんなの手話・手話の賛美

2017年10月7日


NHKのEテレで「みんなの手話」が放送されています。4月から9月まででひととおり講座が終わりました。10月から翌年の3月までは、この半年間の講座が再放送されます。つまり、10月は、学ぶスタートとして最適なのです。
 
この数年は、手話は初めてという人のために、いたって初歩的な内容が中心でした。もう少し中級者のための講座はないかしら、と思っても、世間のニーズはやはり初心者のためであったようで、スタッフや内容が変わっても、レベル的には初めてという感じでした。
 
ところが、ここのところ、それが変わってきました。中級の内容になっていると思うのです。それは、「日本手話」を教えてくれているからです。
 
日本で「手話」と呼ばれているものには、実は2種類あります。ろう者の言語としての「日本手話」と、聴者が知る日本語の語をそのまま手の形に置き換えた「日本語対応手話」とです。実際「日本手話」は別の文化的捉え方から形成されていますから、一般聴者からすれば難しく感じます。もちろん私もそうです。教会で、礼拝を手話通訳するのも、基本的にこの「日本語対応手話」に過ぎません(実際上、これらの混在したものを「中間手話」と呼んで分類することもあります)。
 
たとえば、英単語は知っているが、英文を正確に構築できないとしましょう。私もそうですが、教会で英語のネイティブと語らうときには、英単語を並べることで理解してもらうことがあります。極端に言うと、日本語の語順で、英単語を並べる、ということです。それでも、気を利かしてくれるネイティブは、こちらが何を言おうとしているかを分かってくれることでしょう。「日本語対応手話」は、いわばそのようなものです。「日本手話」はネイティブ(サイナー・手話はサインと称されるから)にとっては、日本語とは語順や伝え方が違います。人称の表し方もあるし、空間的な登録や、手話の本に載っていないようなCLと呼ばれる表現も豊かです。
 
たぶん去年あたりからだと思いますが、新しくなった「みんなの手話」は、こうしたろう者の使う「日本手話」を極力知らせようと努めています。日本語と語順が違うことに戸惑う中学生のように、もちろん初学者は戸惑うことでしょうが、少し慣れると、やはり中学生のように、それを当たり前のものとして受け止めることができるようになるでしょう。テレビはゆっくりとそれを教えてくれます。また、ろう文化やろう教育などについても多彩な取材をしたものを見せてくれますから、私たちは手話を通じて、深い世界に触れ、半ば経験していくことが期待できるでしょう。
 
テキストは、福祉的なものであるせいか、3ヶ月分で391円と実に安価。放送は録画することをお薦めしますが、少し慣れた人ならば、とりあえずテキストからだけでもそうとう学ぶことができると思います。でも、テキストは諸コーナーは掲載されていませんから、やはりテレビ放送が楽しいと思います。
 
手話というのは、手だけの「手まね(そう呼び蔑まされていた時代がありました)」ではありません。体全体を使うし、表情や口の形も重要なメディアです。そして、日本語では表現できないような、すばらしい表現世界をもっています。
 
先日、日本で唯一、日本手話で授業が行われている学校・明晴学園の様子が「ハートネット」で放送されていました。子どもたちは生き生きと手話で学び、表現していました。「風がそよそよ」吹くことを、どう表現するか、これが子どもたちによって違うのです。聴者ならば、口で「そよそよ」と言えばそれで互いに通じたような気がしていますが、ろう者の手話はこれを明確に表現します。表現しなければなりません。その女の子は、自分の前から風が顔を撫でていくような吹き方をしているものとして理解していました。そうか、「そよそよ」ってそういうふうに感じていたんだ、と教えられました。
 
賛美を手話ですると、どうすると思いますか。その歌詞の言葉を、手の形に置き換えているだけだと思いますか。違うのです。その日本語の意味をよく考えて、表現しなければならないのです。「愛すべし」という語があったとします。手話だと、その意味を決定しなければなりません。「愛さなければならない」「愛するはずだ」「愛しなさい」「愛そう」「愛することができる」「愛するのが相応しい」などの中で、その文脈で最も適切な意味を瞬間的に判断して歌います。これらはすべて手話が違うのです。音で歌うのではなくて、意味で歌うというわけです。また、主語が誰であるかを決定しなければ、手は動かせません。ただ「呼ぶ」という歌詞があっても、神が私を「呼ぶ」のか、私が神を「呼ぶ」のか、方向が正反対になるからです。声で歌う場合、極端に言うと、意味が分からなくても「歌う」ことができます。しかし手話は、意味が分からないと、手が止まります。つねにその言葉の意味を理解しないと、歌えないのです。そして、身体で表現することによって、その言葉の意味を実感します。本当に「疲れた」のであり「悩む」のであり、「出て行く」のであり、「手放す」のであり、「いま」ここでと示し、「抱いて」もらうのであり、「飛び込む」のです(ワーシップ「御腕に抱いて」)。
 
正確にできるかどうかなどと迷う必要はありません。先に挙げたCL表現というのは、その個人が感じるままに示すものでもあります。自分なりの疲れ方があっていいし、抱きしめられ方があってよいのです。歌詞の意味が、より一層自分に近づき、自分のものになるのなら、すばらしいではありませんか。それに、だからこそ、流行歌もダンスが取り入れられていたりするのではないでしょうか。神の愛を、口先だけではなく、全身で味わうために、まず手を動かしてみませんか。見よう見まねでも、また、自分なりの仕方でも。きっと、これまでに感じたことのない、賛美の霊に動かされてくることでしょう。


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