世信仰の語らいは楽しい

2017年10月3日


ある牧師からの「チャレンジ」としてこの命題を受けたので、少し考えてみたいと思います。
 
どうも、教会で、信仰の語らいや分かち合いが殆どなされていないようだ、という実態が寄せられた声が明らかになったというのでした。礼拝の間は、たしかに牧師が「懸命に」神と格闘し受けた聖書のことばの説き明かしを、聞くでしょう。しかし、それが終わり、食事の交わりとなったとき、またその後の活動においても、信仰の話が全く出て来ない日常がありはしないか、と懸念されます。まるで、お決まりの義務として聖書の話を聞いたから、あとは気を楽にして、世間話をして楽しもうではないか、とでもいうかのように。
 
なるほど、礼拝後にいつも会う教会員と、にこやかに話をするのは悪いことではないし、そのときに、肩に力を入れて信仰生活は云々と「かたい」話に明け暮れるというのは、疲れるという側面があるかもしれません。しかし、いつの間にか、そういうときに信仰の話をするのが無粋であるかのように、いわば誰とでもできる世の話で盛り上がるということばかりになってしまっていないか、そういう問いが投げかけられたのでした。
 
苦い経験があります。礼拝後の食事の場で、ひじょうに雄弁な役員がいました。政治や経済の話を、また自分の田舎や昔話、音楽の話題も、事情通であるかのように語りまくります。たいていは自分の意見がどうだということを言いたげではありましたが、まるで誰かほかの人に喋らせたくないかのように、自分から話題をつくりまくしたてるのでした。しかしこの人は、後に自分の感情を牧師に害された(客観的に見てそのように受け取ることは通常ありえない仕方でしたが)ことで、声を荒げて牧師や役員の非難を始め、何人かの不満をもつ、裁きの心に支配された人を巻き込み、ついには教会を壊して分裂させてしまったのでした。あげく、自分の主張が通らないと分かると教会を出て行き、別の教会にまた居座っています。この人は、聖書を文学や他の宗教思想のひとつであり、自分の趣味の一部として見ているに過ぎないことが、いろいろな発言から明白となりました。つまり、教会では、信仰の話ができなかったのです。だから、自分の聞きかじった話題の方面の話を率先してもちかけ、決して自分が信仰の話を向けられないように防御していたのだろうと推測できます。確かに、その口から信仰の話が出たことは、知る限り一度もありませんでした。
 
私もまた、そのようにして教会を出たひとりです。家族を守るために、そうしましたが、無責任極まりないことをしたことは間違いありません。放り出された人とたちを、陰でフォローはしたものの、表向きはかの人と同様な振る舞いをしました。申し訳ない気持ちで一杯です。ただ、それは神の導きでもありました。イサクのように争いを避ける中で、神の計画の中を歩むこととなっていったのでした。
 
信仰の話をする。いつもいつも「かたい」話ばかりする必要はありません。けれども、何かとあれば、信仰に立つこと、自分とその人との間にイエス・キリストがいることを確認するかのような話の仕方をすること、そんな話の場があっていい。あるいは、どこかでなければならない。教会に来て「お説教」を聞いたのだからあとは気楽にやろうや、ではなくて、教会だからこそ、イエス・キリストを中心とした交わりでありたい、あるいはあるべきだと思うのです。主にある交わりこそが教会です。教会とは、建物のことではなく、キリストの枝としての一人ひとりのつながり、人間たちのことなのですから。
 
教会は、決して仲良し倶楽部ではありません。確かに教会は、他の集まりと違い、互いに嘘をついたり騙したりする可能性のひじょうに低い、善人の場。心おきなく話すことのできる人がいるとなると、その場で世間話を安心してできるという強みはあるでしょう。しかしながら、礼拝の場からは、一週間世にもまれて戦いに出て行く、あるいは遣わされる私たちです。聖書の説き明かしをまた分かち合うことのできる仲間がたくさんいます。また説教した牧師に、いまの説教のあそこはどういうことですか、と質問したり自分の受け止め方を告げたりすることもできます。信仰の語らい、そして分かち合い。小さなことからで、いいんです。そうした話こそ、教会でしかできないことなのですから。
 
 Christ is the Head of this house, 
 the Unseen Guest at every meal,
 the Silent Listener to every conversation.
 
 キリストは我が家の主(あるじ)なり。
 すべての食卓につける見えざる 賓客なり。
 また、すべての会話の黙せる聴客なり。


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