革命的な礼拝説教

2017年10月2日


先日の礼拝で私は、霊の震えを覚えました。衝撃でした。先月初めに続いて、忘れられない礼拝となりました。私たち夫婦は、目を見張りました。途中から霊のなすがままに揺すぶられていました。
 
礼拝説教は、ラジオやネットを含めて数知れず、聞いてきた私です。自分でも語った経験がわずかですがありますし、説教とは何たるかについての関心は、人一倍強い者です。が、こんな経験は、今日がたぶん初めてです。衝撃を受けました。手話通訳をしていた妻も、すっかりテンションが高まり、福音を伝えたいとの思いだけで取り組んでいる手話通訳は、こういう説教を伝えるためにやりたかったのだ、とでもいうように昂奮していたと後で分かりました。また、その説教が、100%分かった、と手話の受け手が応えたということも、きっとたんなる言葉だけではない、霊に響くものが、そこから伝わったのではないかと思えました。
 
説教は、牧師が神のことばを受け、それを会衆に説き明かす、それがノーマルなスタイルであるだろうと思います。適用という、生活との関わりの段階になっても、会衆一般の生活体験に思いを馳せ、会衆の抱える問題や悩みなどを慮り、そこから解決を見出すための道を提供する、という筋書きが通常のはずでした。牧師自身の体験を話してももちろんよいのですが、それは会衆と共有する、魂の問題であるはずでした。
 
牧師礼拝説教を担うことで、神のことばを取り次ぎます。神が聖書で告げることを説き明かし、会衆に神の思いが届くように努めます。そして会衆の一人ひとりが、神と出会う場を備えようと祈りつつ、会衆に問いかけるものです。聖書はこのように語るゆえ、一人ひとりがこの呼びかけを受け止めるよう語りかけます。神と個人的に出会うことができますように、と祈り心で一つひとつの言葉を選び、告げるでしょう。
 
もちろん説教がその職務のすべてではありません。牧師の職務は一般に「牧会」と言われます。これは、日本語だとピンときませんが、西欧語の中にははっきりと「魂の配慮」という語が並んでいるものがそれにあたります。集う人々、教会員の魂を気にかけ、神に生かされ強められるように、と配慮するために仕えるのであり、そのために神を礼拝することを中心に据えるわけで、そこで神のことばの通り管となって人々に届けることをルーチンとすると言えるでしょう。
 
しかし、この日の牧師は説教の途中で、ある意味で会衆を放り出しました。自分が牧師として何を示され、何を教えられたかに夢中になり、それを神に応える様子をしばらく語り続けていたのです。いうなれば、壇上で、ひたすら祈っていました。天を見上げながら、神と対話をしていました。
 
私はその件に入ったとき、ビンときました。驚きのあまり顔を上げ、壇上をぽかんと、しかし凝視するような恰好になりました。いったいいま、何が起きているのだろうか、一瞬理解できませんでした。私としては、前代未聞でした。それは妻もまた同じでした。私たちは、それを感じる霊的な部分においては共通の地に立っています。目撃したこと、その意味については、二人して確かな証言をすることができます。
 
もちろん牧師は陶酔しているのではありません。「しらふ」でした。それなのに、会衆に語りかける説教から一定の間自分の魂を離し、天の神と話しているようでした。私はそれを悪いことだ、というふうには、少しも思いませんでした。そのとき話の中で牧師が神から取り扱われた聖書の理解の仕方も、ある意味で突飛でした。通常の解釈書ではまず出てきません。しかし、だから聖書をそのように読んではいけない、などという決まりはもちろんありません。むしろ、真摯に聖書と向き合い、神と向き合っているからこそ、神からそのように呼びかけられた、突きつけられたという証拠です。神は時に、いかなる聖書の解釈書や神学書にも書かれていないような意味や仕方で、私に臨むことがあります。それは学説や解釈としては適切でないかもしれません。でも、神が生きておられるので、その神が私に語りかけたきたという事実は、否定しようがありません。他人にその理解を押しつけるつもりなど毛頭無く、それは至ってプライベートな神との関係です。そうです、それは祈りです。そこにおいて神から呼びかけられ、それに対して私がレスポンスする、そうして神との関係が成立します。それが救いであり、信仰となります。その説教の最中に、その様子を私たちは目撃したのです。会衆の誰にも当てはまらないような仕方で、自身に投げかけられた神のことばとチャレンジを個人的に受け止め、それに対して懸命に応えようとする一人の魂の信実をそこに見たのです。
 
先月にも、ややタイプは違いますが、似たような構図の出来事がありました。その礼拝も忘れることができません。牧師が神と差し向かいで祈っているという姿の説教を、私たちは続いて目撃したことになるわけですが、もしかすると同じく聖餐を前にしての場だったことも、何か意味があるのかもしれません。
 
これは、もはや説教学とやらでとやかく論議するようなものではありません。人の知恵や力では、このような説教は認められますまい。けれどもそれは真実なものでした。つまり、聖霊のはたらきというほかない現象を、私たちは見たのです。牧師を、神が取り扱っている。神がまさにいまその場を動かしている。聖霊がはたらいている。紛れもなく、その決定的なありさまを、続けざまに私たちは味わったのでした。
 
それが起こるには、前提のようなものがありました。先月、牧師は自分を壇上でさらけ出したのです。これも壇上では通例出さないでしょう。いえ、壇上どころか、他の場でも、誰にも、言わないことでしょう。確かに、その日まで、そのことは言うようなことはなかった。けれども、それをさらけ出した。――それは、実は強さだと私たちは理解しました。確かに、祈りの中で私たちは、神に自分のすべてをさらけ出すものでしょう。ですから、あの壇上は、まさに祈りでした。弱さを見せる、それは勇気の要ることですが、それ以上に、その弱さを強くする神への信頼がそこにあったのです。もしかするとそれを聞く者が呆れてしまわないか、人間的にはそんなことも頭に過ぎるでしょう。しかし、祈っていた。表に出した。いわばさらけ出す強さが、そこに与えられた。人の顔色を気にするのではない、ただ神と対話し、神に問いかけ、神のことばを受ける、サシの祈りがそこにあったからこそ、何も恐れるものはなかった。だから、聖霊が、ただ聖霊だけが、そこにはたらいていたのです。人の知恵や策略などではない、神の愛と力が、存分にはたらいていたのです。弱さのうちにはたらくという神の力をまざまざと見せつけられました。
 
こんな礼拝をまさか目撃するとは、思いもよりませんでした。そして、これだからこそ、神を礼拝したのだ、と腑に落ちました。これぞ、礼拝だったのです。
 
こんな礼拝のできる教会は、いったいほかにあるでしょうか。私は思います。このいわば純粋な聖霊のはたらく場を守ってほしい、と。「おとな」の思惑を先行させて、礼拝のあり方をねじ曲げるようなことのないようにして戴きたい、と。それは必ずや、聖霊の思いに反することとなるでしょう。私も妻も、その点ではある意味で「命懸け」で、証言します。こうした礼拝を体験できる場には、それに相応しい弟子たちが集い、つながっており、それでよいのです。またそれに相応しい魂がこれからも集められることでしょうし、つながっていくことでしょう。義理や建前を優先させるのは、神よりも人を大切にし、従うことにほかなりません。いけません。この神を礼拝したこの場から、それを目撃した私たちが、出て行って福音を伝えることで十分です。私たちが変えられて、一人ひとりが勇気を出し、また自分を、人の前でないにしても、神の前にさらけ出して、教会の大切なひとつの枝として柱として、生かされ、立ち上がり、歩んでいくことで、命は輝きます。いま、教会には、強く聖霊がはたらいています。聖書のことばが、一つひとつ実現していく場となっています。それを信じる祈りは、神の祈りですから、現実となるに違いありません。祈りましょう。神と向き合いましょう。神との出会いを確信し、いのちをいただきましょう。私たちはそのために、祈ります。聖霊がはたらくとき、自ずから神が語り始めます。神が語れば、息吹を感じるひとに必ず伝わります。すると、そこから否応なく、神の愛が拡がっていくことになるのですから。


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