向き合って、議論するのは如何ですか、「三度目の殺人」

2017年9月21日


映画といえば、たしかに遠藤周作の「沈黙」は深い問題を有していると思います。しかし、それは神を信じない人にとっては恐らくナンセンスにしか見えないことでしょう。神とは何であるか、という点には目が向きますが、自分自身はどうすべきか、その問いかけを私たちが切実に受けるかどうかという点では、薄いような気もします。そこから議論をしても、どこか抽象的な、換言すると他人事のような議論に流れる可能性があります。
 
しかし、2017年9月に封切られた映画「三度目の殺人」は、他人事にはさせない問いを突きつけてくると思ったのです。私たちの社会生活の日常の問題に沿っており、それをまた深く考えようと思えば深くもなるものであり、神を信じようが信じまいが、関わっている、あるいはいつ関わってくるか知れない問題について問われています。この普通の生活の中で出会うことがらについて、あなたはどうするのか、と問われるのです。
 
扱われているのは、実際の犯罪です。しかし映画の中でも「罪」とそれは呼ばれていました。それは、これが特定の悪人だけのもの、たんなる法律で決められた犯罪に限ったものではないのです。ノベライズでは、関わった誰もが皆罪がある、と説いていました。もちろん「ゆるし」も関係しているはずですが、物語ではこの点での導きはありません。つまり、救いはありません。言ってしまえば、西洋の物語とは違い、話の中にキリストがいないのです。他方、いっそう重大なテーマは「裁き」です。十字架が随所で出てきます。いえ、テーマと言ってもよいだろうと思います。ノベライズの中ではそれを「ラテン十字」としきりに説明していました。一般的な十字架の形のことですが、それを「裁き」と解しているように見受けられます。ラストシーンに2種類の十字架が描かれ、うちひとつが特に印象的な十字架の形であったことも、それが大きなテーマであることを示していたはずです。それはこれからあなたはどちらの道を選び取るか、という問いかけでもあったに違いありません。
 
映画の途中で一度出てきた「器」という言葉も私は聞き逃しませんでしたが、ノベライズではそのシーンでリフレインされていました。大きな意味をもたせていたはずです。そして、それが2人の最後の会話の言葉となるのでした。クリスチャンならばこの語に反応しないはずがありません。物語では、その器に、いわばサタンが入ったらどうなるのか、という問いかけがなされていたように見えました。
 
「三度目の殺人」は、クリスチャンが議論するに値する作品だと見ました。「沈黙」より、私は議論がもっとできるだろうと考えます。人間の、いえ自分の醜い腹に真正面に向き合わせてくれます。罪とゆるし、そして向き合うこと、私は17日の朝からこれを突きつけられ続けていましたし、18日に見たこの映画に全部つながっていきました。見ないふりをする生き方を、いかに自分が日常的にやっているかを思い知らされます。どんなに言い逃れをして、弁護人を困らせているかも気づかされました。弁護人とは誰のことなのか、敢えて無粋なことは申しません。
 
映画を観るとき、この映画の出来映えはどうだとか、役者や演出がどうだとか、そんなことを批評するのが趣味の方もいらっしゃるだろうと思います。お金を出して観たのだから、見事な芸術を見せてくれよ、というお気持ちなのかもしれませんが、聖書に対して私たちが、この書き方はどうだとか、歴史への影響はどうだとか、そんなふうに他人事に眺めていやしないかと懸念します。キリストはあらゆるところから、もちろん特に聖書のことばからですが、私に向けて問いかけてきませんか。この映画の中でも、終わりに、受刑者の顔と、ガラスに映った弁護士の顔が重なって対話が続くシーンが印象的でした。いま自分は誰から呼びかけられているのだろう。何を問いかけられているのだろう。何を求められているのだろう。聖書であれ映画であれ、この祈りによって、神とサシで向き合うことがなければ、どうしてことばがいのちになるでしょう。「見て見ぬふりをすること」が、厳しく映画から突きつけられていたと思います。私たちは、サマリア人がユダヤ人を助ける譬えの中の、祭司やレビ人として日常を送ることに、慣れきっているのかもしれません。聖書の問いかけを生き生きと呼び寄せてくれる作品として、クリスチャンに特にお薦めしたいと思っています。

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