学習塾

2017年9月19日


公立の学校の教諭が、予備校や塾を見学するという試みが増えてきました。
 
かつて学習塾は異端視されていました。学習に困っている子の面倒をみるタイプのいわゆる補習塾ならばまだしも、受験を目的とする進学塾となると、ずいぶんな偏見を集めていたものでした。その辺り、森絵都さんの『みかづき』という作品がよく描いていました。
 
いつしか、塾が市民権を得、多くの中学生が通うようになってきたとき、公立学校も、塾には何かがある、と気づき始めたように思われます。それまでは、矜持からか、塾は生徒を機械のように処理し、営利目的でしか見ていないが、学校は生徒に人間教育をしているのだから、点数だけを目的としてはいない、などと言う人もいましたが、もはやそんなことを言う教育者はいなくなったのではないでしょうか。
 
公教育に携わる方が関係者に多い中、学習塾というアウトローな場から見える景色を、今回少しお話ししてみようかと思います。
 
確かに、学習塾は営利企業です。点数が取れるように指導するのが最大の目的です。そして、希望する学校に進学できるために、きつい要求を生徒に課すこともあります。けれども、生徒を人間扱いしないからそういうことができるのではなく、むしろその逆なのです。
 
自分の夢を叶えるためには、現に一定の教育機関に進学するということは、概ね必須の条件となります。その子はやがて自分で生きて行かなければなりません。その時に、一定の環境や肩書きが、その子の歩みを支えます。人間としてこの社会で生きていくために必要な手だてを得るための受験です。点数です。
 
ペーパーテストは、成果を得るのに比較的対策が立てやすく、またかなり公平な手段です。時々、知識のテストは偏っているから、作文や面接が重要だなどと尤もらしいことを主張する声がありますが、公平さの基準としては、その考え方では難しいと言わざるをえません。
 
そればかりか、塾に来る生徒は概ね生き生きとしています。目標がはっきりしています。職員は、お客様であるという視線で生徒を見、扱います。厳しい要求をしても、励まされ従う生徒が殆どです。その通りにすれば確かに達成感が得られるから、教師への信頼は強いと言ってよいと思われます。それに、学習のことしか干渉されません。妙に、人間としてどうだということを面と向かって言われないので、生徒は逆に安心できるという面もあるわけです。全人格を育てなければという観念に支配されると、そこで息苦しく感じる生徒も出てくるかもしれません。
 
自分がとやかく言われるのは学習に関してだけだ、というのは、実は社会的な生活に近いものです。私たちは職場では、仕事ができるかどうかが問われているのではないでしょうか。いくら人が好くても、仕事ができないでは、その職場にいられなくなるのが通例です。また、業績を出しており通常の市民生活をしてさえいれば、他の趣味や生活をとやかく言われることはありません。会社から全人格を評価するぞなどと言われると、ぞっとするでしょう。
 
そうでありながら、学習という一つの面に集約した指導は、その生徒の全人格に影響することがあります。面と向かって、人生は、生き方は、と、授業と同じ熱意をもって、塾の教師は生徒に語ることもあります。斜に構えて嘯くようなことはしません。ゲームに時間を奪われるような生活をする子はいなくなります。親に度を超して反抗するような子はいなくなります。塾では、親と頻繁に電話をするよう心がけているからです。チームでお子さんを育てましょうと意見を一致させて、その上での強力を仰ぎます。学習する環境を与えてくれた親を尊敬するべきだということが、どの子も分かっていきます。
 
また、いじめについても、塾はナーバスです。基本的に、いじめはさせません。皆無です、と言いたいところですが、ちょっとしたからかいをする子がいたりします。そうしたらした者を別のクラスに替えるなどの措置をするのは当然です。まさかその程度で、と思われるほど、厳しく対処します。保護者も、細かな報告をくれますし、対象者を呼んでつき合わせて解決を図るのも普通のことです。そもそも塾生活の中では、いじめをしているような暇はありません。いじめをするようなゆとりは、どの子にも基本的にないのです。
 
こうした環境で教師は、短い授業時間で生徒が「できる」ようになるために、可能な限りあらゆる工夫を施します。もちろんそれは、学校教育でじっくり考えさせるような時間はとっておらず、十分深い理解には届いていないかもしれません。ここは、学校とは考え方が違う面があります。だから、学校の授業で習う機会を大切にするように、私は生徒に言います。その上で、問題が解けるという楽しさを味わわせたいと願っています。現実に解けるようになることで、生徒も自信が出てきます。やればできることへの励ましについては、本気で褒め、励まします。その迫力は、公教育の場では見られないものだと思われます。
 
さて、現実に一部の自治体では、学習塾と公教育とが手を組む試みも始まっています。互いに刺激を受けることがあることでしょう。できればそうした中から気づきがあり、たとえば最近ようやく言われるようになった、部活顧問としての負担に象徴される、とんでもない労働環境を当たり前とするような悪習慣から教諭が解放されたらよいだろう、とも思います。公教育の現場は、全人教育などという看板は出していますが、現場は「法」に動きを支配された官僚機関になってはいると私は見ています。これは、事件になってもよいような、保護者として酷い理不尽な体験をさせられたことからの結論です。最近は少し良くなってきたようにも見えますが、本質的にはそう変わっていないだろうと思われます。
 
また、学習塾というところはやはりどうしても、利益を出していかなければなりませんから、そういう原理から動くというところも多々あり、必ずしも生徒の深い面での教育になど関心を寄せていない、と見られることもありますが、それもその通りだろうと思います。結局のところ、そこの点で、媚びも必要だし、また塾を辞めさせるというようなことも起こります。綺麗事でない点は、認めなければなりません。
 
しかし、ともあれ、教育というものは、未来を創造する仕事です。子どもたちに授ける教育が、次の世代を形成していきます。大人や老人の顔色を見てばかりの世の中でなく、もっと子どもたちそのものを見つめ、育んでいきたいものです。
 
それは、教会においても同じです。教会学校などと呼ばれる子どもたちへの教育について、教会はもっと思慮深く、愛を以て臨まなければならないでしょう。公教育とは異なり、それは塾のように、嫌ならいつでもやめることのできる場です。そうした厳しさの中で子どもに接している点で、塾という場のひとつの真摯さをご理解戴けるでしょうか。まずいことをすればいつでもすぐに生徒は来なくなります。親が寄越さなくなります。金を支払ってまでそんな場所に子を送り続ける親はいないでしょう。簡単にやめることができるのですから。そういう中で塾が子どもを悪く扱っているはずがないということがお分かり戴けるでしょうか。もちろん教会学校に親に連れられてきている子どもはそう簡単にやめはしないでしょうが、中学や高校に進学するときに来なくなるというのは、実はいつでもやめたかったという背景を表しているのかもしれません。
 
なお、この塾という場面では、心身にとくに障害を抱えていないような子どもたちを基準に置いてお話をしてきましたが(実のところ皆無ではないのですが)、「支援」という名前をいま付けられているような教育では、また考えるところは異なることでしょう。できる限り機会は等しく与えられ、しかしその特殊な状況に応じた教育を受ける権利が損なわれないようにと願います。

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