よくわかる!聴覚障害者への合理的配慮とは?

2017年9月15日


よくわかる!聴覚障害者への合理的配慮とは? 〜『障害者差別解消法』と『改正障害者雇用促進法』から考える〜
 
全日本ろうあ連盟から2016年に発行された本。おもに法律的な観点から、ろう者・難聴者に対する社会生活を考えたまとめとなっています。事実上、当該者が権利を守るために知っておきたいこと、またその法の説明や実際の対処法ということになっていますが、私はこれを、聴者が知る必要もあろうか、という見方からご紹介しようと思いました。
 
というのは、近年になってようやく認められてきた聴覚障害者の権利について、あまりに知られていない、理解されていないと思われるからです。
 
ほんとうに少し前までは、基本的人権すら守られていませんでした。そして、守られていない、という受身ではなく、聴者が守らないことをやっていた、と知るべきです。聴覚障害者が自動車を運転できるということも、実のところ多くの人が知りません。窃盗に遭っても、説明が分からないから誰か話せる人を連れて来いだの、事務的手続きについて電話で本人に代われと言うだの、問い合わせが電話番号しか載っていないだの、ちょっとしたことに至るまで、聴覚障害者にはできないことが要求されてもいるのが世の中だというのです。このように本書に実例として挙げられている事態も、一つひとつが、驚きの事態であるとともに、自分もそれをするだろうとか、この対処の悪い例に挙げられていることも当然で仕方がないじゃないかとか、そんな感想をもつこともあるのではないでしょうか。
 
それは愛がないなぁ、とお思いの教会の方にも、お考え戴きたい。ろう者が教会にひょっこり来たら、どうしますか。
 
手話ができる人がいないから、お帰りください――そう言われた人がいます。また、ただ聖書と賛美歌を渡しただけで、その後誰も何も声かけすらしなかった、という例もあります。教会は公共機関と違いますから、それが法に触れるわけではありませんが、果たして、それでよいのでしょうか。「開かれた教会」であると看板を掲げていながら、ろう者に対して、ほんとうに開いているでしょうか。どうしてよいか分からない、ではなく、その時でこそ、愛によって信仰をはたらかせるチャンスでありましょう。
 
また、いまなお旧い差別用語のままの『讃美歌』を歌っていたり、交読文を読んでいたりする教会もあります。それでよいのでしょうか。
 
どんな本でもそうです。悪い例に対して、自分はそんなことは関係ない、という目で手早く判定するのでなく、それを我が身のことと思いつつ対処しようとする、そこにこそ、キリスト教会の真髄があると私は思うのです。また、そのようにしか、聖書を読むことはできないと思うのです。聖書は知識の本でもないし、人間一般の叙述でもありません。そこに描かれているのは、紛れもなく私です。その、けしからん人物こそ、私です。しかし、それを痛切に味わった者だけが、イエスと出会うことができるのです。
 
聴覚障害者は、見た目では分かりません。いま目の前を歩いている、その人がそうかもしれません。また、年齢を重ねると難聴になるのはある意味で当然のことですし、近年のイヤホンで音楽を聴いている若い人々は、より早期に軟調に陥ることが懸念されます。補聴器を付けているから聞こえるだろう、などというとんでもない誤解もまかり通っている世の中です。ここにある「合理的配慮」への知識が十分でなくても、隣人への対処について、キリスト教会はほんとうは心得ているはずです。各教会でどなたかが、気づいてくださることを願っています。

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