対話と平和――ろう者の出来事を考えつつ

2017年9月11日


9.11という「記号」が、特別な意味をもつようになって16年が経ちます。その10年後、半年のずれである3.11もまた、大きな意味をもつシンボルとなったことで、私たちの心に深く、何かが刻まれていくこととなりました。
 
対話が通じない相手。そもそも人は、歴史的地理的環境、つまり時間的空間的環境の違いもあり、互いに言葉が通じにくい部分は必ずあります。が、「社会科」を学ぶことで、できるだけ互いに平和をつくっていくことができるように、理解をしあえるように、と進んでいるつもりです。しかし時にその「社会科」が、敵を憎むために用いられることもあり、そうなると厄介です。言葉が通じないというのは、言語の問題ではなく、心の問題となるからです。
 
対話は、文字や音声によるものぱかりとは限りません。その点、子どもたちは正直です。文字も音声もなくとも、通じ合うことが、大人よりもできやすいのではないでしょうか。
 
そんなことを思うなか、ツイートに、悲しい言葉があるのを見ました。かいつまんでお知らせしますと、まず最初の方が、駅で知らないおばさんにいきなり髪をつかまれカバンで頬を殴られたというのです。駅員さんにおばさんが訴えるには、乗るべき電車を尋ねたら無視された(から殴ったのも当たり前だ)というのです。難聴を抱えているこの方にはうるさい駅で聞こえるはずもありません。
 
そしてこれをリツイートした方が、自分には蹴飛ばされた経験がある、と書いていました。呼んでいるのになんで無視をするのか、とよく言われるのだといいます。この夏のテレビで、コンビニで買い物をしたとき、聞こえないで困っていたとき、店員からおつりを投げつけられたことがある、という話も出ていました。
 
ろう・難聴を抱える人たちは、見た目ではそれと判断がつかないために、こんな暴力を受けています。暴力をはたらいたのは、もちろん聴者です。聴者の側にいる私は、彼らから見れば「怖い人」の仲間のひとりに過ぎません。できるだけ、理解を広めるべく、こうして小さな訴えを繰り返すことしかできませんが、続けていきたいし、お読みの皆さまにも理解して戴きたいと願っています。
 
対話を求めているというよりも、対話があって当たり前だ、という前提から始めるとき、自分が暴力をはたらくことを正当化する、そんな心が、ひとにはあるのかもしれません。
 
確かに国際的には、対話の通じにくい相手もあります。他国のみならず、同じ国内にも、声を聞こうとしない政治家や権力もあります。しかし、通じて当たり前だという前提から無闇に憤慨したり、相手を罵ったり、皮肉ばかりぶつけたりするのも、まず自分のほうが正しいという前提からスタートしているわけで、それで対話や平和をつくることに向かうのかというと、難しいのではないかと思われます。
 
確かに「困ったひと」はいます。自己愛に支配され、自己義認しかできないタイプの人はあると思います。それに対することがあったら、こちらも、同じレベルで対応しても事態は改善しないでしょう。キリスト教会の皆さま、キリストの「愛」を知る私たちにできることはないでしょうか。せめてまず、日常の小さなことから、いま、ここで。そしてまずは、祈りましょう。
 
なぜなら、祈りとは、神との対話であると言えるからです。

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