牧師と司祭の育て方

2017年9月1日


季節毎に一冊出版される、季刊誌『Ministry』では、2017年8月号でも、また刺激的な特集が組まれました。
 
題して「牧師と司祭の育て方」。神学校のようなところ、という理解でよいのですが、他方、現場に立ってその牧会の中で、その人を育てていく、という観点も含まれているような気がします。
 
退職後神学部で一年間聴講したから、自分のほうが聖書や教会のことを他の信徒よりもよく分かっている、と豪語した人は論外にしても、召命感なしに神学校を受けたため、正式入学を保留されたり留年したりしたうえ、結局よく聖書も救いもよく分からずに戻ってきて、人を裁きまくり教会を掻き回し分裂させたという人も知っています。親の期待から優等生の牧師を演じねばならなかったけれども、神との出会いの経験がないため精神的に追い詰められていった人もいました。その他牧師のスキャンダルや犯罪なども間近で聞くと、改めて、人間の地位や肩書きは神の前には何の権威もないのだと思い知らされます。長く役員を続けている人が実は信仰心など全くもっていないと分かったときは、その人が教会を壊した後だったというのは悔やまれました。人を見に教会に行くわけではない、鼻で息をする者はしょせんその程度なのだとどこかで線引きをした上で、神に愛され支えられている中でただ己は神の前に出ること、愛すべき方々と共に神を称えることのために礼拝に集うという信のあり方が、私をずっと貫いています。
 
それは、牧師などを信頼しない、という立場ではもちろんありません。むしろ、牧師のためには、とびきり祈らなければならない、と言いたいのです。また、牧師夫人(配偶者)という不思議な立場の方のためには、とくにまた祈る必要があることを経験的に知っています。信徒が牧師とその家族のために祈らなければ、教会は倒れます。サタンが最も攻撃目標にするのがそこだからです。失礼な言い方であることを承知で申しますと、牧師が真に救われるように、と祈る必要さえあると考えています。そうしないと、福音が語れないからです。神の愛を伝えることができないからです。しばしば信徒は安心して牧師を奇妙に信頼し、そのために祈らなくなっていくことを、たいへん危険なことだと感じています。
 
建前の信仰論や成功例だけの教会成長論などが盛んに飛び交う中、腰を据えて現実をよく弁え、聖書と格闘しながら人の心を尊重するというのは、口で言うほど簡単なことではありません。時にふざけたような切り口で、しかし具体的でニーズのある問題と対策をいつも取り上げようと努めている『Ministry』誌です。牧師や教会役員をターゲットにしていると思しき編集ではありますが、信徒が遠慮する必要はありません。中には牧師の悩み相談を請け負うくらいの信徒であってもよいくらいの気構えで、教会の問題を共有し、本気で、教会を支える祈りを始めようではありませんか。一人ひとりが教会の一部なのですから。

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