手話のお手伝いができる人がいる教会

2017年8月24日


手話通訳の集いに先日初めて参加した旨、先週お伝えしました。ある意味でお恥ずかしいこと限りなく、私は、通訳者などとは口が裂けても言えないほどに拙いもので、3歳児程度の能力しかないのかあるのか知れない程度の者でしかありません。しかし、教会の礼拝を通訳するということにかけては、それなりに言いたいことがあるという立場でした。
 
教会の手話通訳は、「正しい」手話を使って説教を「まるまる」伝えることとは違う、と理解するからです。もちろん、そのために、努力を怠り、ろう者の好意に甘えるばかりでよい、などと言うつもりはありません。しかし、たとえば説教を全部間違いのない手話に置き換えればよい、というものではないだろう、と思うのです。
 
たとえば説教者は、神からみことばが与えられ、それを語ろうと努めますが、神の思いを全部正しく表現できるかどうかは分かりません。いえ、それは不可能とすべきでしょう。ならば、説教をろう者に伝える手話通訳者も、説教の言葉をまるまる正しく置き換えるということもできない、とすべきなのです。それよりも、説教者を通じて神が現そうとされた神の心を、ろう者の心に届けることが、教会の礼拝における手話通訳者の役割なのではないか、それが第一なのではないか、と考えます。
 
手話の形は正しくないかもしれない。しょせん日本語手話という、ろう者から見れば単語をつなぎ合わせた見苦しい言語表現かもしれない。英単語を、日本語のままの順番にめちゃくちゃに並べて英語を喋っているようなものなのですから。しかし私は、いくらかコミュニケーションができることと、不足していることは重々承知のうえでも精一杯、ろう者の歴史や背景、置かれた立場や環境などについて知識を求め、また想像することとの中で、聴者のひとりとしてこれまでできていなかったこと、またしてしまっていたことを抱きつつ、理解したい、少しでも近くにいさせてもらいたい、そんな思いで、できることをさせて戴きたい、と願っている者なのです。
 
手話は言語である、という条例が各地でどんどん成立しています。福岡県はまだまだ遅れていますが、那珂川町は、役場が積極的に普及に努めてくれています。
 
教会では、必ずしも「正しい」手話が必要なのではありません。ともに神のことばを受け、神を称えるための手話であれば、さしあたりは十分です。愛はすべての罪を覆い、すべての敵対者をも結ぶ帯です。隔ての壁を壊す、あのベルリンの壁の一部が、南アフリカ共和国に届けられているということを昨日知りました。聴者が虐げてきたろう者たちとの間の壁も、乗り越えることができる希望が、まだあると思います。それは、戦後日本の戦争責任にも似た構造があると私は捉えているのですが、そのことはいまここでお話しするつもりはありません。
 
手話をいくらかでも使おうとするつもりになれば、神の前にともに手話で祈り、賛美をすることができるのです。手話で賛美をするとき、その意味を正確に捉えようと瞬間瞬間に努めなければ、とても賛美をすることができません。聴者の私たちは、讃美歌の歌詞の意味も分からず、ただ音と声だけで時を過ごすということが、できます。しかし手話賛美は、意味をかみしめて、またダビデのように体全体で主を喜ぶことによって、初めて賛美ができるわけで、これを体験した人は、賛美に対する考え方が一変することが多いと思います。
 
職業的な手話通訳者は、いないかもしれません。しかし、神のことばをかみしめて伝えようと熱い心をもっている、手話の同労者がいる教会は、いくつかあります。ただ、そういう人がいるということを、教会は世に知らせなければなりません。手話がうまくないから、自信がないから、などとは思わずに、手話でお手伝いができますという情報を、その教会は流すべきです。ろう者は、聞こえない分、視覚情報は聴者より決定的に優れた能力で探し、手に入れようとしています。ネット世界にそういう人がいることを明かすならば、何かしらろう者の目に止まります。そして、強力に拡がっていくネットワークがあることを私は知っています。
 
ろう者はしばしば行動的です。海外旅行へも積極的に出て行きます。聴者が感じるほどには、日本社会にいても、海外にいても、コミュニケーション環境の差は感じないのです。ろう者は変な遠慮や気遣いをしないことがあります。伝えられる時にはっきり伝えておかないと、正確に伝わらないかもしれないからです。腹のさぐり合いのようなことを求めません。しかしそれは本来のコミュニケーションの姿であるはずです。
 
残念ながら日本手話(これは日本語を置き換えた日本語手話でなくろう者の中で生まれたもの)は、音声言語の標準語ほどには、標準化されていません。また、手話そのものを文書記録に遺すことも難しいものがあります。手話は言語であるといっても、音声言語と同列に置くものではないかもしれません。しかし、そこには日本手話ゆえの思考や文化があります。教会がすべてのひとに開かれたものを、と美しい言葉を掲げるのであれば、この方々を排除するわけにはゆきません。そのためにも、手話の心得のある方がいる教会は、ぜひそのことを広く告知して戴きたいと思います。切に、願います。

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