何が「安心」なのか
2004年8月29日

 ここで私は、学校教師が日の丸や君が代を崇拝しないことが是か否かどちらかの立場からものを言うつもりはありません。また、ジェンダーフリーという言葉に賛成か反対かどちらかの立場からものを言うつもりもありません。その前提で、「論じ方」と「情報操作」について、何度も同じ題材を遣って申し訳ありませんが、産経新聞のコラムを取りあげて考えていきたいと願っています。


産経抄2004年8月28日付

 「東京の教育が心配だ」というきのう朝日新聞の社説の見出しに何のことかと“心配”して読めば、これが東京都教育委員会が採択した中学用の歴史教科書の問題だった。小欄の感想をいえば朝日のあべこべで、東京の教育はまあまあ安心である。

 ▼なぜ安心か。このこと一つで決めるわけにはいかないが、都教委のこれまでの方針と見識には信頼できることが多いからだ。今度の教科書採択についても、「戦争賛美」とか「侵略肯定」といった教育委員あての反対意見の文言の99%は同一だったという。

 ▼つまり反対の声はほとんどが組織された“世論”で、実際にあの教科書に自分の目を通していない? 自分で読んでいればそんな教科書ではないことがわかるはずだから。都教委の良識といえば、「ジェンダーフリー」というあやしげな用語の不使用通達もその一つだった。

 ▼この三月、都教委は都立高校の教職員百七十余人を「戒告」した。「起立して国歌を斉唱する」という通達に反した先生をいましめたものだったが、念のために書くとこれは公教育の場でのことである。このとき教師は公人であり私人ではない。

 ▼ところが朝日は社説で、日の丸・君が代を「掲げない自由」「歌わない自由」を認めるべきだと主張し、強制するな・選択の自由を奪うなと書いた。国際的マナーや礼節を教えるべき“公人”の教師が、個人的な趣味や信条を振りかざせば、どんな子供が育つか。

 ▼アテネ五輪は日本選手の健闘で日の丸・君が代のラッシュになったが、スタンドの日本人はみな国際的礼節を守り、他国の国旗・国歌にもきちんと敬意を払っていた。つまり都教委のめざすような教育がほどこされれば、まずまず“安心”していいのである。


 今回は、まずはできるだけ皆様にご検討戴きたいと願い、引用の範囲を超えているとお叱りを受けるかもしれない程度に、資料を提供してみようと思います。つまり、当該の朝日新聞の社説をご覧戴きましょう(これがネット上で参照できないがゆえに、リンクではなく引用をするわけです)。


■教科書採択――東京の教育が心配だ


 東京都教育委員会は、来春開校する都立の中高一貫校で、「新しい歴史教科書をつくる会」主導で編集された中学用の歴史教科書を使うことを決めた。

 採択は1校だけだ。国公立の普通校としては、愛媛県立の中高一貫校に続いて2例目である。それでも、来年には教科書検定と全国での一斉採択があるため、都教委の判断が注目されていた。

 公開された委員会の論議は計5分ほどで終わった。「3年前に養護学校で採択したときも一番良いとした」「戦争へ導く教科書ではない」。そんな意見が出ただけである。都内の公立中学では1校も使っていない。8社の教科書の中から、なぜこれを選ぶのか。残念ながら、説得力のある意見は聞けなかった。

 石原慎太郎都知事が99年につくった私的懇談会には、「つくる会」の幹部2人が名を連ねていた。この懇談会からメンバーの2人が教育委員になった。こうしたことも影響を与えたのだろうか。

 私たちは、この教科書について、バランスを欠いており、教室で使うにはふさわしくないと主張してきた。

 たとえば、満州事変から太平洋戦争へ至る歴史をあまりにも日本に都合良く見ようとする偏狭さが目立つ。これでは戦争へ突き進んだ無謀さを知り、歴史を学び、教訓をくみ取るのはむずかしい。

 国家への献身が強調されているのも特徴だ。神風特攻隊を詳しく書き、遺書や遺詠を掲げて、戦争中の人々の気持ちを考えてみようと求めている。

 この教科書に対しては、さまざまな立場から批判が寄せられてきた。

 五百旗頭真(いおきべまこと)・神戸大学教授は、歴史の大胆な語り方に「新しさ」を認めながらも、「その観点たるや国家闘争史観に自滅した戦前の歴史をそのまま地で行こうとするものとしか思えない」と指摘している。「自国を大切にするからこそ、他国の人がその国を大切にする心にも敬意を懐(いだ)くことができる。それが国際的妥当性を持ちうる開かれたナショナリズムである。この教科書はそうではない」とも述べている。(「論座」01年7月号)

 教育委員たちはなぜ、こうした意見に耳を傾けなかったのだろうか。

 都教委は今春の卒業式で「国旗は舞台壇上の正面に」など12項目も事細かく指示した。監視役を派遣して、従わなかった教員約250人を処分した。

 教員を処分で脅し、生徒の内心の自由も認めない。国が決めたのだから、なにがなんでも従わせようとする。そのような考え方と同じ線上で、「つくる会」の教科書を選んだのではないか。

 そんな教育方針で、生徒がみずから学び、みずから考える力をつけることができるだろうか。世界の人々と交流し、互いの歴史や伝統を大切にする若者が育っていくとはとても思えない。

 都教委は今後6年間でさらに9校の中高一貫校をつくる。東京の教育がますます心配になってきた。


 如何でしたか。どちらの考えの方が、事実により近い論じ方だと思われましたか。
 産経抄によると、その教科書の採択について東京都教育委員会に対する反対意見に出てくる文言の「99%」は同じような言葉であったゆえに、それは組織的に送られた特殊な「世論」に過ぎず、しかも実際に問題の教科書を見たことがないからだ、とほぼ断定しています。そして、唐突に「ジェンダーフリー」は怪しい言葉で、これを否定した東京都教育委員会は立派だ、と賛美します。
 残念ながら、この文脈には何の論理性も事実性もありません。情緒的な「99%」という表現は、つまり「全部」と言うためのレトリックに過ぎません。それらが組織的に送られてきたものだという言明も恐らく事実とは食い違うでしょう。というのは、特定の新聞社や団体に限らず、多方面のソースから反対意見が出ているからです。教科書を見たこともないのに、という言葉は、実にひどい断定です。見ているからこそ、反対意見が言えるわけで、これはほとんど誹謗中傷に値する言い方でしょう。
 
 公教育の場では、教師は公人であり私人ではない、と産経抄は断言しています。
 そうでしょうか。
 私の見方では、公教育の場では、教師は公人でもあり私人でもある、と考えます。私人ではないのであれば、教師はただマニュアルに従って国家の指示に従うだけの、人間生産工場のロボットに過ぎません。あの太平洋戦争を体験した教師の多くが、自分たちがそのように何も考えずに子どもたちを戦争に駆り立てて死に追いやったことを悔やみ、あるいは真剣に問い直しています。
 たしかに「公人」であるのは本当です。しかしそのことを、イコール私人ではない、としたところに、巧妙なレトリックがあります。騙されてはいけません。公人である場に置いて人間は、私人を捨ててしまうわけではないのです。
 それは、この新聞社が大好きな事態を想起すればすぐに分かります。公式参拝か私的参拝かを区別して靖国神社に参拝するなどはナンセンスだ、総理大臣は私人であると同時に当然「公人」として参拝しているに決まっているではないか、という立場を貫いているのですから。
 
 教師は「公人」であるから、思想的な「趣味」を「個人的」に「振りかざせば」、どんな子供が育つだろう、と産経抄は揶揄しています。このコラムニストに言わせれば、子どもたちを戦場へ送りたくないという叫びは、個人的な信条として教育の場では口にしてはならないのであり、せいぜい「趣味」に過ぎない考えだというわけです。そういう「趣味」を教えられた子供たちは、変な子に育つらしいです。
 
 他方、日本人は「みな」、アテネ五輪で他国の国旗や国歌に敬意を払っていたそうです。だから、東京都教育委員会が「新しい歴史教科書をつくる会」主導で編集された中学用の歴史教科書を採択したこと(そもそも産経抄にはこの教科書の名前さえ明言しないで論を進めていたあたり、策が巧妙です)が目指している教育には、ますます「安心」である、という結論です。
 このアテネで「みな」が敬意を払って素晴らしかったのであれば、それは、この新しい歴史教科書が行き渡る以前の教育、つまり戦後民主主義教育の成果である、と指摘することはできるにしても、だからこれから採択する歴史教科書が安心なのだ、という推論はできないはずです。それを平気で結論としてもってきています。なぜでしょうか。それは、この新しい歴史教科書が、国歌と国旗への忠誠――さらに言えば服従を目指しているからです。
 なお、この教科書の内容については、「たかぱんワイド・ホンとの本」の
『教科書が危ない』をご参照くだされば概観できると思いますし、ネットで検索すればさらに詳しいよい説明がたくさん見つかることでしょう。
 
 また、他国の国旗や国歌に敬意云々のフレーズでは、直接触れるスペースがなかったようですが、この新聞からすると、明らかに、あの中国でのサッカー日本チームに対する暴力的振る舞いのことが比較されています。これは私の個人的な推測という程度のものではないでしょう。この新聞の主張からして、間違いありません。
 ところが、同じ28日に、毎日新聞は、「発信箱」というコラムで、このことについて興味深い指摘をしています。


発信箱:
民度が低い
 サッカーのアジア・カップで中国人サポーターが反日感情を爆発させたことで、今でも論議が続いている。なかでも石原慎太郎・東京都知事の「中国人は民度が低い」との発言は大きな波紋を呼んだ。

 しかし、私は都知事の発言を聞いて、民度が低いのは中国人だけだろうかと思った。

 というのも、事件後、偶然、インターネットの書き込みサイトを見る機会があり、アジア・カップに関して、中国人や中国を罵倒(ばとう)する言葉があふれているのに、ショックを受けたからだ。

 その内容はここでは書くことができない。あまりにも差別用語や下品な表現があふれており、新聞では使えないからだ。

 しかも、反中国の「民族感情」(とでもいうのだろうか)をひたすらあおり、中国人を弁護しようものなら、たちまち袋だたきにあうような問答無用の雰囲気がある。

 インターネットは匿名の世界だ。誰が何をいっているのか分からない。しかも、その発言に誰も責任を持たない。

 だから書き込みの表現はどんどん過激になる。いってみれば、一人では何も言えないのに集団になると居丈高になる暴走族の世界だ。

 多分、このネットの世界は日本の社会を必ずしも代表してはいないのだろう。それでも、書き込みを読むと「中国人は民度が低い」などと大きなことはいえなくなる。

 インターネットは「世界の人々の心をつなぐ」と称賛する人は多い。

 しかし、低俗な感情をぶつけ合う「書き込みサイト」を読むと、人間の持っている暗い一面を見せつけられ、重い気持ちになる。(専門編集委員・石郷岡建)

毎日新聞 2004年8月28日 0時23分


 となれば、産経抄のコラムニストは、この書き込みサイトこそが戦後民主主義の産物で、他国の国旗に敬意を払っていたのは日の丸と君が代を強制してでも崇拝させる教育委員会のあり方の賜物である、ときっと言いたくなることでしょう。
 もしそうは言わなかったとしても、私は個人的に、「我田引水」という言葉の意味が、このコラムを見るようになって、はっきりこういうことを言うのだ、と分かってきました。
 
 
 ところで、この産経抄のテーマは「安心」という言葉にありました。東京都教育委員会は安心できるということが、主題と言ってよいでしょう。
 この「安心」という言葉、気になるので調べてみると、日本語としては、「あんじん」と読む仏教用語が本来のようでした。信仰が確立し、揺るがない心になった境地のことを表現するのが「安心」のようです。
 そこで「安心決定(あんじんけつじょう)」とくれば、浄土宗で往生信仰が定まることをいうし、「安心立命(あんじんりゅうみょう・りつめい)」というのは、儒学の言葉から禅宗で使われるようになり、さらに広まっていった言葉のようです。
 英語では"peace of mind"のような表現があり、安心立命には"spiritual peace"が充てられています。
 産経抄の筆者は、何を信仰して気持ちが定まり、どんな"peace"を心に得たのでしょうか。それは特定のアジアの国をぼろかすに言い放ち、戦死を美化するその主張と、どのように重なってくるのでしょうか。

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