本

『教科書が危ない』

ホンとの本

『教科書が危ない』
入江曜子
岩波新書886
\777
2004.4

 取り上げられているのは、『心のノート』と『新しい公民教科書』『新しい歴史教科書』の三冊。曰く付きの出版物であるが、これらが立派に教科書あるいは教科書同然のものとして採用あるいは押しつけられているという点が問題である。というのも、それらがたんに国粋主義に走っているという理由ばかりでなく、事実を曲げて感情的に誘導する仕組みが中に組み込まれているからである。
 彼らは、論敵に対して口を揃えて言う。「そんな自虐史観をもつな」「日本の歴史と伝統を守れ」「我々に反対する者は感情に走っているだけだ」と。しかし、この新書を読んでいると、私などは腹立たしさももちろん感ずるのだが、妙に笑えてしまうことがあった。というのは、彼らこそ、これら三つの言葉が、著者によって突きつけられているからである。
 執拗な攻撃である。こうでもしなければ、身を守ることはできないという見本なのだろう。かの三冊のあらゆる文を、確かな眼差しで見つめ、そこに仕掛けられた嘘や罠を見出し、指摘してゆく。実に鮮やかな手法であると共に、これだけのエネルギーがよくぞ続いたものだと感動すら覚える。
 詳細は、この本をお読み戴ければすべて分かる。日本が如何に危ないところに、知らない間に、連れて行かれようとしているか、そのからくりのようなものが見えてくる。
 折しもこの本が出されたとき、自衛隊は、国際援助という名目で戦地へ派遣され、小泉首相は独断でそれを多国籍軍に参加させると言った。これには元首相なども首を傾げている。しかし、なし崩しに既成事実を作りつつ、この政府の動きは、この本で取り上げられた教科書が詭弁を弄して論理を抑え、感情によって国家統一を図り、国民皆兵への道を作り上げようとしている、まさにその道であることが、はっきり分かってくる。
 恐ろしい渦に入っていこうとしているのだ。しかも、それに「巻き込まれた」で済ませられないような事態に。私たちは被害者であると同時に、加害者にもなってゆくのである。それでいいのだ、それが正義だ、と思い込むようにさせられてゆくのである。
 ふと、私の心に浮かんだことがある。エホバの証人のことである。彼らは、自分たちの説に都合のようテキストを編集し、こちらこそが本物の聖書であると主張している。そして、伝統の聖書は実はこちらなのだと語り、一般の聖書をまがい物だ、間違っていると決めつける。自分たちの王国こそすべてなのだ、と。
 あるいは、統一協会もそうである。こちらは、経済主義がより強く、金集めが目的ではあるけれど、とにかくこの原理の下に統一されなければならないということで、一般の聖書では不十分であるから、自分たちの『原理講論』が新しい規準となると思い込んでいる。
 どちらも、最初はひっかかった被害者としての顔をしていられるかもしれないが、そのうち他人を巻き込み、取り返しのつかないことへ陥らせる、加害者になりかわってゆく。
 彼らの思いこみや論理、そして他を説得するための詭弁、思い違い、そういったものは、かの教科書らとそっくりな図式なのである。
 それらは、新聞を比べようなどと言いながら、毎日新聞と朝日新聞はついに引用されず、その引用のほとんどが産経新聞であるそうだ。しかし彼らの立場からすると、当然である。自分勝手な聖書などをつくり出した教団と同様、自分勝手な新聞を論拠としてゆく。こういうことがおかしいという声を挙げないことには、実に何でもありの世界になってゆくであろう。
 この本は、まさに「教科書が危ない」でよいのかもしれないが、私は誰にでも伝わる形で、こういう面の説明を加えてほしかった。つまり、危ないのはつまるところ何であるのか、と。危ないのは、教科書に限定されるものではない。だから何が危ないのか、もっと明確に、この本を書店でちらりと見ただけの人にもそれを意識させることができるくらいにはっきりと、ぶつけてほしかった、と思う。
 それくらいに、この本の内容は、心あるすべての人に知っておいてほしいと思うから、そう言うのである。
 なお、もしも、その新しい教科書を採用しなければいいではないか、と思われる人がいてはいけないので、付け加えておく。『心のノート』という補助教材はすでに子どもたち全員に課せられており、これが実に誘導的に――洗脳的と言ってよい――国家崇拝や神道的統一へ滑り落とさせるようにできている。教科書となると選択されるが、教材なら検定なしにいきなり全員に届けられるのだ。もう、すでに国家洗脳は始まっているのである。




Takapan
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