本

『幸せな王子』

ホンとの本

『幸せな王子』
オスカー・ワイルド
金原瑞人訳
ヨシタケシンスケ絵
\1300+
2022.2.

 またまたショートセレクションである。表紙のヨシタケシンスケ氏の絵は、いつになくシリアスだ。幸せな王子の掌にツバメが載っている。この物語は、果てなき自己犠牲の物語であり、涙を誘う。多くの人がよくご存じであろう。
 だが、その物語は、果たして自己犠牲を美化するようなものなのだろうか。私は、この物語の真骨頂は最後にあると見ている。最後の三頁にある、と。但し、最後の最後は果たして必要であったのかどうか。それは、ヨブ記の最後にも匹敵する。読者の心を落ち着かせるためには、必要だっただろう。しかし、その部分なくして終える方法もあっただろうと思う。恐らく現代であれば、そうしたのではないか。そこは、やはり19世紀後半を生きたワイルドならではの、信仰と秩序のもたらす展開だったと言えるのではないかと見ている。
 以前、西村孝次訳の新潮文庫版について、私は記している。すると、どうやらこちらの訳は少し違う表現があるらしいことに気づいた。やはり、こちらは少年少女向きに、言葉を選んでいるような気がする。好きだった葦に同行を拒まれたとき、「きみはぼくをおもちゃにしていたんだね」が、「ぼくをからかっていたんだね」に変わっただけで、ツバメのきつい口調が、子どもにも分かる自然な言葉に変わるから不思議だ。訳者というのは大したものだ。ただ、この葦というのは、マタイ伝の「風に揺れる葦」を当然連想させるものであるから、権力に靡き自らの意思をもたないような者に裏切られる、一途なツバメを際立たせるようになっていると思われる。これが、物語のラストの部分に呼応するように、私には感じられて仕方がないのである。
 新潮文庫で読んだものもここには収められているので、記憶にあると思ったが、やはりかつて読んだときの意地悪な衝撃というものは、いくらか薄らいでいるように感じた。比較していないのでただの印象に過ぎないけれども。それでも、「ナイチンゲールとバラの花」は、なんとも切ない。世の中そうだよね、と言ってしまえばそれまでだが、男の一見真剣な、命を懸けた恋愛を見かねて、限りない自己犠牲を尽くしたナイチンゲールの命は、なんとも悲しい結末を迎える。この男もまた、かけがえのない命と真心がもたらしたものに、微塵も気づいていない。そしてあくまでも自己正当化を続けて不満の心を起こしただけで、また何の変化もない日常に戻るのである。
 幽霊を、双子の男の子たちがとことん遊び相手にしかしない物語は、かなり長いが、十分厭きさせずに読者を楽しませてくれる。そこがワイルドの才能なのだろうと思う。退屈なところがない。もったいぶった描写もないし、どの部分も必要不可欠なものとして存在している。こうした作家の腕前というものは、妙に批評めいたものなどしたくないと思う。作品をとことん喜んで、楽しかったと感想を漏らせば、作家としてはそれで十分なのだろう。だが、作家のほうでも、心のどこかで、感心してほしいと思っているかもしれない。だから、楽しませてもらったよ、と拍手を贈ろう。
 かなりドキドキしたのが、最後の「アーサー・ザヴィル卿の犯罪――義務とは」だった。どう展開していくのか、振り回されることばかりだった。主人公の心理に「なんで?」と疑問を差し挟んでも、言うことをきいてくれなかった。だが、予言の謎は、予想した通りであった、などと言うと、自慢げに聞こえるかもしれないだろうか。多くの読者が、そういうことだろう、と見抜いていたと私は推測する。また、見抜けるように、ワイルドが上手に仕掛けているとも思う。流石である。
 なお、「訳者あとがき」が、短いけれどもなかなか面白い。殊更に面白く書いているのではないが、「あとがき」はかくあるべき、と思える見本のようなものだと感じた。
 どの物語も、私の心をぎゅっと捕まえるものをもっていた。ひとつ残念なことがあるとすれば、物語が比較的長いので、収録数が少なかったことだ。つまり、各話の最初に置かれるヨシタケシンスケ氏の絵が、少なかったのである。




Takapan
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