本

『幸福な王子』

ホンとの本

『幸福な王子』
オスカー・ワイルド
西村孝次訳
新潮文庫
\438+
1968.1.

 よく知られた童話であろう。こども向けに短く編集されたものが多い。町に立つ立派な像としての王子が意志と命をもつ。そこへ、群れから離れたツバメとの友情が生まれる。ちと強引でもあるような、王子からのツバメへの依頼は、結果的にツバメの命を奪ってしまった。王子の目に映る、町の不幸な人のところに、王子の身にまとう宝石や金を剥がし、ツバメに届けてもらうのだ。
 届けられた貧しい人々は、与えられた値打ちあるものを、天からの授かり物だと素直に受け取るばかりで、怪しむこともない。純朴な信仰とでも言うべきか、ともかく生活苦から抜け出た喜びでそうなるのか、定かではない。
 海を渡る機会を失ったツバメは死に、表面の金や宝石をすべて人々に届けた鉛だけとなった王子の像は、町のお偉方に、乞食だと蔑まれ、美しくない像は炉で溶かされるが、心臓だけがどうしても溶けない。この心臓とツバメは、天使が神のもとに届ける。
 自己犠牲を説いたかのようにも見え、ちょっと胸を刺される物語である。絵本にするときには、その純粋な思いが強調され、子どもに向けられる。確かにワイルドも、これを童話として出版しているのであるが、さて、実際に読んでみると、これが童話なのか、子どもに読ませるものなのか、と訝しく思う。
 皮肉や諷刺に溢れ、実に酷い仕打ちが続く。ラストで神がこの二人を救うようなものも空しく思えるほどだが、実はこの一種の救いはまだいいほうである。本書に収められた童話の数々は、他のどれも救いがなく、つまらない結末に溢れている。それどころか、最後に円満解決になるかと思わせておいて、最後の数行で大どんでん返しに遭い、非常に後味の悪い結末で気分が悪くなるものもいくつもある。いま敢えてそれをここでは示してしまわないが、読後感が非常に悪い。
 子どもに読ませるものではない、という声は、出版当時からあったらしい。尤もだと思う。ワイルドもそんな子どもの教育を考えて書いていたとは思えない。読みやすさ、とっつきよさを示しておいて、読めば大人がグサリとくる、あるいは大人のある人々を批判している、そんなスピリットに溢れているのだと言える。
 このツバメにしても、そもそも登場した様子が気持ちのよいものではない。美しい葦に恋をするが、仲間が旅立つ中、共に旅しようというツバメの誘いを葦が断ると、さんざん悪態をついて、自分をおもちゃにしていたのかと吐き捨ててひとり飛び立つ。そのとき偶々止まったのが、王子の像だったのである。こうした発端は、どこまで必要だっただろうか。あったのである。ワイルドは、ツバメのこの身勝手な、思いこみの激しい姿をなんとか見せたかったに違いないのだ。
 最後にツバメが王子の足元で死んでいるのを見ると、市議会議員や市長はよってたかって王子の像をバカにした上で、ここで鳥が死ぬのは許されるべきではないという布告を出さねばならない、などと法の決定を提案する。立法というものを揶揄していることは確かである。市長は代わりに自分の像を立てようとするが、議員たちは自分の像をこそ立てよと喧嘩を始める。
 ツバメが死んだとき、王子の鉛の心臓が二つに割れて、王子も命を失う。ワイルドの他の童話においても、しばしば心臓が割れるという描写がある。これはワイルドの心の破裂の表現ということなのだろうが、それぞれの話でのクライマックスとなる。自己犠牲をそこまでやり遂げた末に、それが全く意味もなく捨てられ踏みにじられるというような話もあり、とてもやさしい気持ちになれるものではない。
 善人面をした者が実はそうではないこと。希望をもって未来を見ようとしても、空しいこと。いったい、どこまで悲観的になればよいのだろうと思わせるような向きもあり、やはり子どもに読ませたい物語ではとうていない。しかし、だからこそ、それは現実の姿として認識しなければならないことでもあり、目を背けてはならないことだとも言える。とくに、大人は、ここに描かれた非難の矛先が、自分自身であることを覚るべきだろう。その勇気のある方は、ぜひ手にとってみて戴きたい。




Takapan
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