共に祈る教会

2002年5月

「一緒に祈る」というのは、どういうことでしょうか。
「心を合わせて祈る」ためには、どうすればよいでしょうか。
漠然とした質問に対してでしたが、たかぱんはいろいろ考えてお答えしました。

パンダ

 祈りについて、どこからどう考えていけばよいのか、よく分かりません。息の仕方を説明してください、と言われてもどこからどう語ればよいのか分からないのに似ています。

 祈りは、ひとつの呼吸でもあり、賛美でもある。神の中に生きるのであれば、それはたいへん自然なことで、生かされていることそのものが祈りの姿であるような気がしてなりません。

 だから、「祈り」ということで、口で称える言葉のことだと狭く理解してしまうと、また違った説明になってしまうでしょう。

 たとえば、キリスト教が始まってしばらくは、各人がそれぞれの言葉で祈っていたが、やがて教会組織が調うにつれ、公的な、決まった祈りが定まってきた、など。使徒信条もそうでしょうし、ある意味で「主の祈り」もまたそうです。共に礼拝する公的な場での祈りには、それに相応しいスタイルもあるということでしょう。自分だけの課題や意見を持ち込むというよりも、その場にいる全員に共通の問題意識で、その代表としての役割を果たすという意味があるでしょうから。まさに「公祷」です。

 ペンテコステの場では、そうした形式的な文句などはおそらくなかったことでしょう。ただ、あの状況での祈りは、個人的な課題とか悩みとかいうものではなく、必然的に、全員の共通の課題があったわけです。時はイエスの処刑後、キリストを信じる者たちは、命を狙われています。いつどのような形で殺されるか知れない状況。ユダヤ人たちを恐れて、世から隠れていなければなりませんでした。また、イエスが昇天したということを聞き、そのとき約束された、聖霊をくださるという言葉を期待して、ひたすらその助け主を待っていた精神状態。いつどのような形で聖霊がもたらされるのかも知りませんから、十日間、必死の思いで集まって祈っていたに違いありません。

 心を「合わせ」ないでも、心は「合って」いたことでしょう。

 時代は変わり、個人個人がそれぞれ多様な世界の中で生きるようになりました。多様な世界というのは、初期教会の時代のように、その時代の空気の中で人々が誰もが同じ渦の中にいたというのではなく、今は各自が他人と関わらなくても自分の価値観をもって自分の関係するグループだけの中で生きているような様子をいいます。各家庭ごとに、まったく「世界」が異なるのです。ある人の悩みが他人の悩みになることがなく、ある人の苦しみも他の人と共有されることがないかもしれない姿です。

 その中で、祈りは、ますます個人と神との一対一の関係でしかなくなるのか……いえ、それは、修道院が模範とされた中世までにおいてもそうでした。現代の視点の中で、中世と同じ事態が起こっているという理解はできません。まして、原始教会時代もそうだったということはできないはずです。

 マタイ18章の「二人または三人が」が問題だとするなら、たとえば「聖書ウォッチング」の「」に、この箇所のことを書いています。とくに後半の部分です。このときの二人とは、敵同士であるという前提です。仲の良い二人組ではなく、いがみ合っている敵同士が心合わせて祈るところに神はいますという意味で読むことができます。少なくとも、文脈からいえばそうなります。

 よく言われることですが、「愛する」ためには、意志が必要です。感情だけでできることは、「愛」ではありません。感情ではできないことをするためには、意志が必要です。「愛する」とはそのようなものです。だから、自然に敵を許せるはずはありません。からだにではなく、心に血を流すような思いとともに、初めて敵を許すということができるのかもしれません。敵を愛するというのは、きれい事ではできないことです。

 それができるように、神の力を戴かなければなりません。人間にはできないことだからです。神の力を戴く通り管が、祈りです。呼吸です。神の息吹を受けるのです。自分の中にそんな偉そうなものはないし、自分では問題が解決できないから、だから、神から戴くわけです。その神とは、全世界を創造し支配するというモードでの神ではありません。また、肉を通ってきてくださったイエスでもありません。目には見えなくても、心の目でこそ見える、そして実際に働いてくださる、聖霊という神です。聖霊は、紛れもなく神です。聖霊は、祈りという管を通してこそ、影響します。

 このときの「祈り」が、もはやたんなる言葉や文句ではないことは明白です。自分にはできない、と苦しんでいるそのときにこそ、聖霊が心を開こうとそこまで来てくださっているとすれば、まさに苦しんでいるとき、その人は祈っていることになります。神に対してなぜと問いかけているときにも、呆然と立ち尽くしているときにも、その人は祈っていることになります。

 そういうことに気づいている者同士、互いに祈り合うという姿もあります。そのときには、声を出し合います。互いに相手の課題のために言葉を出します。祈り会とはそういうものですし、修養会などでは、二人組になって互いに相手のために祈るという場面もあります。自分だけの苦しみを、人にも告げるとき、少しほっとすることがありますが、さらにその人が自分の苦しみのことを神に向けてくれているというのは、また筆舌しがたい喜びを伴います。

 これを「執り成し」といいます。ほかの人の願いを聞き入れるように、神に祈ることです。執り成しの祈りは、自分と神だけという図式から私たちを解放してくれます。実はこの私というのは、神の目から見ると、愚かな哀れな人間の中の一人であるという見え方さえしてきます。祈りは、自分が立っている立場からだけの狭い視点でなしに、神からの広い視点をももたらします。そのためには、他人のために祈るということ、他人を愛するということ、そうしたことが必要なのです。

 心を合わせて祈るというのは、こういう姿をも意味しているのかもしれません。

 でも、どんな祈りがよくて、どんな祈りが悪いなどというものはありません。十字架のイエスが、すべての人を執り成すというのが、根本的な事柄だからです。私たちがどんなに拙い祈りや、自分本位な願いを神にぶつけようと、すべては御子イエスが間をとりもって届けることになります。どんなふうに祈っても、よいのです。ただ、祈っているうちに、自分が調えられて、自分が変わっていくというのはあります。祈りの中に、よくない祈りや、的外れな祈りというものはありません。神の前には、人間の祈りは、どれも似たようなものに過ぎません。

 祈りはこうでなければならない、というふうなことを説く人がいたとすれば、もはや福音を踏み外しています。遠慮なく無視して構いません。どう祈ってよいか分からないという人のためには、「主の祈り」という模範をイエスは提供してくれています。それだけでもよいのです。ある牧師は、「主の祈り」を称えながらその内容を瞑想していると、1時間くらいすぐに経ってしまう、と言いました。言葉にしなくても、主の御心は何かと問いながら思いを巡らすとき、それは格別な「祈り」となっていることでしょう。

 偉そうなことばかり書いてきましたが、私もまた、祈りについては何も知らない一人です。多くの方の「祈り」についての証しを聞いたり読んだりする機会があると恵まれます。また、歴史上の美しい祈りの言葉が載っている本がありますので、最後にお勧めしておきます。

パンダ

『祈りの花束〜聖書から現代までのキリスト者の祈り〜』 

ヴェロニカ・ズンデル篇/中村妙子訳/新教出版社


Takapan
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