2002年2月

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
(マタイによる福音書5:39,新共同訳聖書-日本聖書協会)

 有名な聖書の箇所について、さまざまな非難がなされます。
「なんとキリスト教は無理なことを言うのか。そんなことは、できるわけがない。理想主義も甚だしい」
「だからキリスト教は、弱者の宗教なのだ。現実の世の中で何もできない無力な弱虫が、きれいごとを言って自らを正当化しているに過ぎない」

パンダ

 その春の初め、イエスはエルサレムを目ざしました。十字架に架けられることを覚悟の上で、しかしそれが自分の使命であるとして、敵のただ中に飛び込んでいったのです。左の頬どころか、全身を引き渡して、身も心もぼろぼろに、ずたずたにされるために、エルサレムの城壁(都市の中心部は城壁で囲まれていました)を越えていきました。
 なかなかできることではありませんが、そのイエスの姿に倣って、敵を臆せず近づいていこうとする者が続きました。ローマ皇帝の迫害にも単純に逃げまどわずに殺されていった人々がいました。日本でも、キリシタンと呼ばれた人々は筆舌しがたい苦しみの中で殺されていきました。京都から連れ回されて長崎で処刑された人々や、雲仙の「地獄」の責め苦に喘いだ人々の話を聞くと、なんとも言えない気持ちになります。

パンダ

 けれども、敵にやられっぱなしでは、メンツが立たない――それも、分かります。いえ、その通りです。そして、お人好しではこの世では生きていけないのも事実でしょう。企業家は会社を存続させられず、国家元首は国が破滅するのを見守るだけということになりかねません。不死鳥のごとく蘇ったイスラエルのように、二千年の時を経て国家が再生するかもしれないなどと呑気なことを言っている場合ではありません。
 だから、アメリカが、やられたらやりかえせという精神でむきになったからと言って、単純に責めることもできない気がします。同時多発テロによって、かつて戦火に汚されることのなかったアメリカの中枢が炎上したわけですから。

パンダ

兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
(マタイによる福音書18:15-17)


 人から迷惑を受けたら、(1)一人で忠告する(2)他人も入れて話す(3)組織に訴える の順で相手に関わるように、イエスは言いました。それでも改善しなければ、縁を切って人間扱いしないようにする旨が記されています。
 きわめて常識的な手順だと言えるでしょう。テロの攻撃を受けたアメリカも、この手順はほぼ守っているようにも見えます。ただ、相手を攻撃せよという命令は、ここにはありません。

パンダ

 ところでイエスは、ここで話を終えているわけではありません。イエスがこうした事務的なことを取り上げたのは、次のことを言いたいためでした。

どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
(マタイによる福音書18:19-20)



 ああそうだ、教会員が二人あるいは三人と集まって祈ることはすばらしいことなんだ……という意味で読むとよいのでしょうか。それなら、迷惑を受けたときのこの対処は、いったいなんのために書かれているのでしょうか。迷惑を受けた。その人を追放した。ああいやなことがあった。だから心を慰めるために、一緒に祈りましょう……イエスは、そんなことを言いたかったのでしょうか。
 心を一つにして求めるときの「あなたがたのうち二人」とは、誰のことなのでしょう。仲の良い教会員のことでしょうか。――否。迷惑を受けた人と、その迷惑を与えた人、の二人であるとしか考えられません。三人とあるときは、それらを仲介する人が加わった程度に考えてもよいかもしません。

 被害者と加害者とが心を合わせて祈るなら、そこにイエスが、神がいる。

 当然でしょう。敵と一緒に、心を合わせて祈るなら、それはもう、平和の実現そのものを意味します。神の前に出て、加害者は悪いことをしたと悔やみ、被害者も加害者が許せるようにと祈る。それが神のもたらす平和、和解であると言えるのでしょう。

パンダ

 クリスチャンは、イエスの十字架に、自分が救われたことを感じます。そのときクリスチャンは、神により、敵と和解するように命じられます。
 敵? どんな? そうだ、あれもされた、これもされた、自分はいろいろ人から迷惑を受けているが、それらをすべて許せという。なかなかできないことだけれど、それをやってみよう……。
 そうなのでしょうか。
 たかぱんは、違うと思います。それで終わりはしない、と思います。
 まさにこの自分が、自分こそ、「敵」だと思うのです。
 自分こそ、神に逆らって生きていた、あるいはいまだに神に相応しくなく生きている、「敵」であるし、「悪人」に違いありません。自分が偉そうに他人を許す、などという立場ではなく、自分はいつまでも、神に赦していただかなければならない立場でしかありません。自分が他人を許してやるのだ、などと、自分こそ正義の味方、自分こそ一方的な被害者であるという思いこみは、きわめて危険なことではないでしょうか。

パンダ

 アメリカのしていることは正義である、と、他の国々が認めているだけならぱ、まだよかったと思います。けれども、アメリカ自身が、正義はオレ自身だと決めたとき、アメリカは、神の敵にまわってしまっているのかもしれません。

Takapan
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