青い空が見えぬなら青い傘広げて
いいじゃないか キャンバスは君のもの
宇多田ヒカル COLORS
英語を表出さず、しっとりと日本語で歌い上げる。宇多田ヒカルの本領は、こっちのほうにあるのかもしれないという気にさせる曲です。
青い空が見えないなら、自分から青い傘を広げればいい。思いのままの世界を描くことはできるのだ……奇しくも、この曲の発売の直前に、 教会学校紙「つばさ」のコラム「炭火」の中で、その青い色について綴っていました。そこでは、青い色が好きな少年が、世界中を青に染めようと努力して町長にまでなり、町中を青い色でいっぱいにしようとしますが、曇ったが最後空さえ青くできないと悩んでいるとき、孫の一言にはっとさせられる、というものでした。「自分が青い眼鏡をかければ世界は全部青くなるよ」と。
世界を色眼鏡で見る危険性も含めた話なのかもしれません。ただ、素直に読むとこの話の趣旨は、世界を塗り替えることはできないが、自分自身が変わるならば、世界は違って見えてくるものだ、ということでしょう。
宇多田ヒカルの場合は、また別の響きが乗せられていると思いますが、偶然とはいえ、青という色と、自分の側でその青を作るという図式が似通っていて、興味深く聴きました。いい曲です。

色。不思議な存在です。
その物体が固有の色をもっているというわけではありません。その物体が反射する光のもつ周波数によって、その光を受け入れて視神経を通して伝わる信号を脳が解析するときに、それを特定の色だと判断する仕組みです。反射された光が色を呈するに過ぎません。その物体自身が光を出すのは、熱などの理由のほかは通常考えられないのです。
光をすべて吸収して、反射することがないものは、黒く見えます(究極はブラックホールというものでしょう)。すべての光を反射すれば、真っ白です。青い光を吸収する物体は、他の赤や緑の光を反射するために、黄色に見えることになります。
私たち人間は、自ら光を放つことができるでしょうか。私には、できないように思えます。私たちは、有限な存在として、自ら光を放つ力は持ち合わせておらず、ただ大いなる存在、存在者の存在を司る、いわば神の発する光を反射するだけに過ぎないのではないでしょうか。
だとすれば、私たちに注がれている神の光を、私たちがどう反射するかによって、私たちのことを見る他の人々が何色を見るかということが決まってくるように考えられます。
神の光を我がものと思い、すべて吸収していこうとすると、私たちの姿は、他の人々から見れば何の光も反射させない、暗黒であることになります。それはまるで、あらゆる川の流れを自分に引き入れ、自分からは外へその水を漏らさないゆえに、煮詰まり、生物の棲めない池となってしまった「死海」のようです。
神の光を自分のものとして取り入れるのでなく、すべて反射することになると、私たちを見る人は、そこに神の光全体を見ることになり、輝かしいものを感知することになるのでしょう。

つまり、私たちは、自らよけいなことをしないほうがよいことになります。この、輝きを減ずるものを、ある派は「自我」と呼んでいます。俺が俺が、と粋がるところには、自分がなんとしても表に出ようとする意志があり、それは神を証しするための邪魔をする以外の何ものでもない、という理解です。自分が自分がとしゃしゃり出ると、神のはたらきを邪魔していまうのです。
青い空が見当たらないなら、私たちは青い傘を広げることもできます。私たちがもし神の国、つまり神が支配する世の中というものを見たいと思うならば、私たちは神の光を表す傘を広げることができるでしょう。信仰のために広げる、神の光を照らす傘、そうした視点をもつと、私たちは何をしたらよいか、ひとつの指針を得ることができます。何をしたらよいか。それは、時に、何もしないこと、になるでしょう。それは、時に、何かをすること、になるでしょう。単純な公式にすることなく、神は実に多様な形でそれを実現するべく、私たちに声をかけ、命じ、そして見守ることでしょう。
神は人間に、期待しています。そのこともまた、信じようではありませんか。

色――それは、物体固有の性質でなく、物体が光を反射するときの相違として現れるものだ、という見方をしてみました。
考えてみれば、私たちの認識の拠り所とする「感覚」はすべて、それと同様の正確を有しています。聞いているのも、振動の周波数に過ぎませんし、味わっているのも自分の感覚器官の受容性に基づきます。つまり、味蕾や神経の異常があると、すべてが味気なく変わったりするわけです。対象が固有に、絶対的に有している性質が何であるかということは、極めて流動的なものに違いありません。
触覚についてさえ、不思議ではありませんか。分子なり原子なりの集合体であるその対象物は、ミクロレベルではスカスカなもの。空間だらけ、隙間だらけの存在物です。案外、実在の物体というものは、灰色の、ほとんど透明なもろい構造であるに過ぎないのかもしれません。いや、たぶん実のところはそうなのでしょう。
幻覚剤を使用すると、景色が極彩色に見えることがあるらしいですが、私たちが知識として、感覚を基に判断しているものは、実はそうした幻覚に相当する性質のものではありますまいか。
自分の感覚を唯一の根拠として判断することが、いかに愚かなことであるか、この際反省してみる必要があるようです。

「TRICK」というテレビ番組がヒットし、映画にもなりました。夜の時間帯のドラマの知識に乏しい私が、夜中の再放送のときに見たところ、私はファンになってしまいました。最初はそのトリックの数々に驚くばかりでしたが、段々思考が慣れてくると、即座にそのトリックが見抜けるようになりました。
物体本体のほうの性質でなく、光の方が問題なのだという観点も、そのようにして見抜くことができるに違いありません。
恵みが同等に降りそそぐ中、私たちは、それをどのように反射することができるのでしょうか。私がどう判断するかでなく、私自身が、ほかからどのように認識されるかという点にこそ、私の意義、私の真価が問われることになるでしょう。
私は私自身を認識することはできません。だからまた、私がどうあるべきか、どうしていけばよいのか、について、自分自身で「これでよい」と言えるまで知ることはできないことになります。
人間が謙虚でなければならない理由の一つがそこにあるような気がします。
教会というところには、さまざまな色があります。どの色も不要なものはなく、どの色も役割があります。中学生や青年たちが、聖書のことがよく分からなくても集まることがあるのは、彼らがそこに居場所を見つけているからかもしれません。どの色もそこにあってよい色であり、その意義があります。それを互いに認めているというのは、その色の原因が神にあることを、自然と前提して理解しているから、と説明できるかもしれません。
だから、誰でも、あなたでも、教会にいてよいのです。

