逃れの町の大祭司
びっくり聖書解釈
逃れの町とは、過失から人を殺してしまった者が逃げ込むことのできる安全地帯でした。復讐する者に狙われるその命を守ろうとする掟です。もちろん、過失でなく故意であれば、復讐をすることはできるというのですが、過失であれば、いわば仇討ちはできないというのです。
これでは、どこかの国の法律のように、被害者の人権は守られず、加害者の人権だけが保護されるかのように聞こえます。しかし、聖書の規定には、「人を殺した者が共同体の前に立って裁きを受ける前に、殺されることのないためである」(民数記35:12)とあり、また「共同体はこれらの判例に基づいて、殺した当人と血の復習をする者との間を捌かなければならない」(35:24)とあります。
よくよく調査するまで待て、というわけです。
さらに、「人を殺した者は、大祭司が死ぬまで、逃れの町のうちにとどまらねばならない」(35:28)とも記されていますが、これはどういうことでしょう。
イスラエルの法律はともかく、このように大祭司と呼ばれる人は、新約聖書以降、イエス・キリストとなっています。イエスの死によって初めて、私たちの罪は解かれました。イエスの死を通してでなければ、人間の罪は赦されることはありえませんでした。その死が罪ある自分の死として受け容れられるまでは、私たちは罰や復讐から守られています。そして十字架の死と共に、私たちは元の日常世界に戻り、励まされて歩み出すことができるのです。「大祭司が死んだ後はじめて、人を殺した者は自分の所有地に帰ることができる」(35:28)とあるように。
すなわち、共同体は、人を殺してしまった者を血の復讐をする者の手から救い出し、共同体が、彼の逃げ込んだ逃れの町に彼を帰さなければならない。彼は聖なる油を注がれた大祭司が死ぬまで、そこにとどまらねばならない。
(民数記35:25,新共同訳聖書-日本聖書協会)
た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド