トラクト作成のために

2006年7月

 教会で、トラクトを作成するということになりました。トラクトとは、教会案内のチラシのことです。正式には、パンフレット形式を言うのではないかと思いますが、ここでは、一枚もののことをそう呼ばせてもらいます。
 この教会では、最近ほとんどそれをしていませんでした。
 
 いろいろな理由があります。
 たしかに、そのための費用の捻出が難しい面もありました。たとえ作っても、それをどう配るかという点で、生きのいい(?)若者が少ないのも問題でした。いちばん確実なのは、新聞の折り込みにすることですが、それもまた費用がばかになりません。
 マンションなどで、チラシを入れるなというところも増えてきました。
 京都の牧師には、そのことで証詞がありました。教会の若者が、アパートにトラクトを入れたそうですが、それで因縁をつけられたのです。チラシを入れるなと書いてあるのに入れた、どうしてくれる、というのです。それは、かなり怖い人でした。まだ若かった牧師は、相手の言うことを受け容れました。しばらく通って生活の世話をしろ、みたいなことを言われて、通い続けたのだそうです。結局、そこに神が働かれたのを確かに見ることになるのですが、とにかくチラシを投げ入れることには、その時代以上に難しくなった感じもします。
 
 しかし、教会の存在そのものはなんとなく知られているにせよ、教会のことを知ってもらいたい、教会をオープンにしたい、などという思いは強く、新しい牧師の下で、それを実現するに相応しい時ではあるだろうと思われました。
 トラクト配布については、賛成です。
 
 その点が、執事会にかけられていました。
 そのとき、ひとつのモデルが紹介されていたようなのですが、それは、だいぶ前のトラクトでした。白い紙一面に、ちょっと囲いがつけてあり、その中に、ワープロ文字でぎっしりと文章が記されています。三浦綾子さんの証詞の文章でした。そして下のほうに、教会名と地図が。
 私は、一目見て、「これは読まれない」と思いました。
 
 誤解のないように言い添えておきますと、私は、すべての人がトラクトを読んで感動する必要はないし、多くの人に気に入られなければ意味がない、などとは思いません。心に悩みをもっている人が、この文章を熱心に読み、それで神を求めるなら、そして信仰へ、教会へとつながるのであれば、それがたった一人であっても大いに意味があったことになる、と信じます。
 苦しい人は、こういう求めをもって、この小さな文字でぎっしり書かれたトラクトを読み、神の前に呼ばれるだろうと思うのです。ある意味で、私もそのような一人でした。それは、ひとつの小説からではありましたが。
 神にできないことはありません。その意味で、「辛い人が熱心に読んでくれたらいい」と、ある方が仰ったのは、真実に違いないと思います。
 
 でも、白いコピー用紙に、ワープロ活字ながら、これだけぎっしりと詰まって書かれた三浦さんの証詞を見たとき、多くの人はどうするでしょうか。たぶん、半分以上の人が、まったく読まずに捨てるでしょう。へたをすると、ほとんどの人が、になるかもしれません。
 実際、私たちは、知らない宗教とかビジネスのチラシが新聞に入っていたとしたら、あるいはポストに入っていたら、どうするでしょうか。読まずに捨てるのではないでしょうか。それも、毎週入るスーパーマーケットの広告ならまだしも、一年に一度そういうのが入ってくるだけだとしたら、誰がその内容を覚えているでしょうか。読んでもいないとすれば。
 
 信仰の証詞の紙を、しょうもないチラシと一緒にするのは不謹慎だ、と思われるかもしれません。しかし、私たちの毎日を振り返れば分かるとおり、薄い白い紙に白黒印刷で文字がぎっしり書いてあるものがポストに入っていたとき、私たちは多分に、しょうもないチラシとしか頭は認識していません。自動的に要らない塊の中に投げ入れられて重ねて廃棄されるだけです。
 要らないチラシだ、と。
 
 できるなら、多くの人の目に触れるようにしていきたいものです。何かしら、心の片隅にでも残るようなものにはなれないでしょうか。そのためには、まず手にとって、見てもらわなければなりません。まったく読まずに捨てられてばかりでいるよりは、手にとって見てもらえたほうが、どれほど資源を役立てたことになるでしょう。
 
 分厚い紙のチラシなら、幾分手にとって見られる可能性は上がります。私たちも、日常的に、そうしているはずです。しかし、紙の質を上げることは、経済的に難しいでしょう。
 つるつるの紙にカラー印刷だと、目にとまる可能性は増えるでしょう。しかし、これも費用がかかります。
 たとえば、一枚の紙を二つ折りまたは三つ折りにするだけでも、違います。ほんの一瞬のうちに、私たちは、折られた案内を、「大事なものかな?」と思う心理をもっています。新聞チラシの場合はあまりその差を感じませんが、たとえば役所などで、立てて並べられた案内書のうち、一枚ものと、三つ折りのものとがあったら、どちらを大切なものと感じますか。私なら、間違いなく、折られたほうを、そう思います。
 
 それでも、デザインがつまらないなら、見られなくなります。文字が多いものは、だめです。インパクトのある写真、レタリング、コピーなどが必須です。いくら紙がよかろうが、カラーであろうが、素人くさいダサい広告、時々入ってくるでしょう。手作り風でいいな、と思うときもありますが、少なくとも教会からそういうものが来れば、教会とはなんかいい加減なところみたいだ、という印象を一瞬のうちにされて、終わりです。
 
 人は見かけがほとんどだ、というふうな本が売れていましたが、たしかに私たちは、そのトラクトが、一瞬のうちに与えた、第一印象が、その人に大きな影響を与えてしまうことを知るべきです。
 まずはダサくても、とにかく教会のことを知ってもらって……などと悠長なことを言っている暇はありません。
 考えてみてください。新しいケーキ屋さんが開店しました。その第一の広告チラシが、ダサいものだったら、もう誰もその店に行かないのではないでしょうか。たとえ後で立派なチラシを出しても、一度失った信頼、一度与えた軽蔑感は、変えられないないものなのです。
 
 では、どのようなトラクトを作ればよいのでしょうか。
 それは難問です。こうすればいい、という公式のようなものがないのが、世のビジネスです。成功した人は、「私はこうして成功した」と威張れますが、それから学ぶことは、実はさしてありません。結果論からしか言えないわけで、こうすれば必ず成功する、という方法があれば、誰も失敗することがなくなるはずです。あたかも、「この組織に加われば、必ず儲かります」と誘うネズミ講みたいな感じです。
 
 その時代の流れや、空気というものもあります。その地域の風向きやにおいというのもあるでしょう。
 田舎に、あまり洗練されすぎたセレブな広告が有効とは思えないし、都会には都会向きのアーバンなデザインというものがあるでしょう。伝統を感じさせる落ち着きや信頼感の持たせ方というのもあるし、そういうのにむしろ反発をもつような若い世代を自然に誘う、ポップなデザインというのもあるわけです。
 
 けれどもまた、デザインの基礎として、一瞬目に入ったそのときに、何かが心にとまり、何かなと思わせて本題に引き入れる、そのためのテクニックというのは、制作側は勉強しておかなければならないでしょう。何事も、基礎は重要です。
 キャッチコピーはもちろんのこと、文字の大きさや配置、アイキャッチや画像の置き方、目の流れや、説明の順序など、白黒印刷でも工夫すれば、必ずや心が捕らわれるものが制作できるはずです。
 
 そのための勉強は、幾多の理論もありますが、まずは世の中の広告というものに、意識をおいて注目することが大切です。
 たとえば、車を運転しながらでも、「おお?」と目を惹いた看板はないでしょうか。
 毎日読む新聞の広告の中で、つい全部細かいところまで読んでしまった、というものはないでしょうか。
 役所などに置いてあるパンフレットの中で、ふと目について、手にとってみたものはないでしょうか。
 ショッピングセンターの中で、買おうと思ったわけではないのに、つい目について買ってしまったというものはないでしょうか。陳列方法のテクニックも店にはありますが、それにしても、その商品のアピール方法や、商品名など、心を奪う何かがあるかと思います。
 それらは、どうして私の目にとまったのでしょう。どうして私は手を伸ばしたのでしょう。どこが、それらの広告物の魅力だったのでしょう。それを意識して、考えてみたならば、これから自分が作るトラクトをどうすればよいのか、自然とアイディアが浮かんでくるものです。
 
 初めてトラクトを作る素人は、必ずやこの罠に陥ります。それは、内容を詰め込みすぎる、ということです。文章を書く素人は、少しでも言葉をたくさん書いて文字数を増やそうとしますが、大家は、必ず、文章は悉く削ぎ去って切りつめていく、といいます。それと同じで、小さな文字であれもこれもと盛り込んだトラクト、空間があれば必ず何かイラストがちりばめられているトラクト、それは、決まって素人の手によるものです(ああ、こう言うと、このサイト自体がいかに素人であるのか、ということになります。もうここは、開き直り、観念するしかありません)。
 しかし、そうした広告を日常手にしたとき、私たちはどうするか、考えれば答えは明らかです。私たちは、一瞬しかそれを見ません。一瞬のうちに、自分とは関係がないと判断すれば、もう二度と見ることはありません。
 このように考えてくれば、少なくとも、自分の言いたいことがこれだけたくさん盛り込めた、と自己満足で終わるトラクトを世間に放ち、笑い物になることだけは、避けることができます。送り手ではなく、受け手の身になって考えるという、最も単純で、最も難しいことを、意識すればよいのです。
 
 我が家の3歳の子は、まだオムツが取れません。母親はそれをいたく気にしています。
 ショッピングセンターの中で、買い物カートを押しながら歩いているとき、目の高さにあった商品には、こういうネーミングがしてありました。
【卒業パンツ】
 もう、その言葉を見ただけで、その一瞬だけで、母親はその紙オムツを手にとってカートに入れました。
 そして、呟きました。「教会のトラクトも、こんなふうに人の心を捉えるものでありたいもの」と。
 レジに並ぶと、二つ前のお母さんも、同じ商品を買っているのが見えました。


Takapan
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