特伝大改革案

2007年6月

1.目的

1-A.キリスト・聖書を示し信仰をもたらすため

1-B.教会員を増やすため

1-C.現教会員のリバイバル・訓練のため(修養会)


2.スタイル

2-A.聖書文化講演会・コンサートなど

2-B.キリストとの出会いをもたらす形式

2-C.ディスカッション・学習会


3.メッセンジャー

3-A.現教会スタッフ

3-B.友人・知人の教役者

3-C.エヴァンゲリスト(プロの伝道師)


4.時期

4-A.秋

4-B.その他の季節

4-C.通年または分散


5.テーマ

5-A.福音の原点

5-B.求道者のニーズ

5-C.講師の関心のままに


6.伝道ということ





1.目的

1-A.キリスト・聖書を示し信仰をもたらすため

1-B.教会員を増やすため

1-C.現教会員のリバイバル・訓練のため(修養会)

 さて、そもそも何のために特別集会(以後特伝と称す)を開くのでしょうか。

 おそらくどなたも、1-A.だとお答えになるかと思います。しかし、現状は1-C.のような実態となっています。つまり、この特伝で新しい方が決心して信仰に導かれるという図式が殆ど成立しておらず、またそういう気概も薄いような気がします。しかし、1-C.であって悪いわけがありません。それならそれで、高度な学びができます。リバイバルは重要です。現にこの教会で興っています。いっそのこと、信徒訓練会として成立させるのも一案でしょう。1-A.であるならば、何もこのときだけに新しい人を連れてくるというよりも、これまで礼拝に時折連なっていながら、決心のついていない方を「招く」ものとしての位置を確実にしなければなりません。 

 1-B.が本音だという人もいるでしょう。それならば、なにがなんでもこの教会の一員としなければなりません。キリストを伝えるのではなくて、教会に結びつけるための方策を第一とする必要があるでしょう。しかしながら、これはもはやカルト集団ではあっても、キリスト教会ではないと見なされます。人を如何にして連れてくるかを研究するか、そんな必要は全くありません。それだけの魅力ある特伝を企画するかどうか、が問題です。ノルマを与えて誰か連れてくるというのは、異端やカルトではあっても、福音を伝える教会のすることでは断じてありません。

 私たちは、たまたまこの教会を会場として、機会として、キリストを伝える場を設け、これを聞いた人が、他の教会、家の近くの教会へ導かれることをとにかく願い、祈るという方針に立つことができるでしょうか。これができなければ、1-B.にほかなりません。もしたまたま自分の教会に導かれればそれはそれでよし、そうでなくても、キリストが伝えられたことを文句なしに喜びとすることができるでしょうか。これならば、信徒の皆さんも人を誘いやすくなります。

 なぜならば、今のこの教会には、人を連れてきてこの教会に結びついてください、ということができるような魅力がないからです。その詳細はここでは述べません。

 

 

2.スタイル

2-A.聖書文化講演会・コンサートなど

2-B.キリストとの出会いをもたらす形式

2-C.ディスカッション・学習会

 ここで、選択肢があります。人を教会に集めたいのか、それとも広く集める必要はないゆえにキリストを求めている人に決心を迫りたいのか、という選択肢です。

 これらは、現状では、さしあたり両立しません。

 前者であるならば、2-A.のように、伝道色を完全に脱色しなければなりません。聖書をカルチャーとして学びたい人は、少なからずいるでしょう。それを、信仰を強要するようなイメージがあるから、聖書の話は聞きたくても、教会へ足を運ぶという人は少ないものと思われます。それを払拭することができれば、ただの聖書講座として、展開することは可能です。となれば、これは連続講座の方が自然なわけで、教材費+αを頂戴するほうがよいということになります。無料は却って信頼を失います。お金を出してでも知りたい、と思うから来るのであって、無料ということは、引き入れようという魂胆があると見なされます。あるいは、内容に自信がないのだ、という受け取られ方をするのがせいぜいのところです。

 また、コンサートもきちんとしたものであれば、いくつかの教会で実例が示すように、ニーズはあるわけです。

 こうした形で、教会に人を集めることができます。これは、地域への奉仕ということにもなり、信仰を強要しないというありかたで、逆に地域の信頼を得ることができます。地域の中で、教会が一定の位置をもつことができる道を拓くことになるでしょう。 

 2-B.は、人を広く集めることは難しくなります。その代わり、教会にふだんからおいでの方の心に迫るようなひとときを迎えることが可能になります。ただしそれならば、信仰の核心を話す話が必要であって、社会運動を喚起するようなものであるべきではありません。神・罪・救いの基本を外れることなく、最後に「招き」が絶対に必要です。

 2-C.は、信徒の学習会や修養会向きのスタイルとなります。信徒の成長を促すためのもので、しかも、いわゆる未信者であっても求めている人であるならばとけ込めるようなものがどこかにあったほうがよいと思われます。これは、聖書を知る者が、聖書の奥義、信仰生活の神髄といったものに触れるためのものです。これを「収穫」のために行うということにも、大きな意味があるでしょう。

 具体的には、深い信仰書やある講演原稿を資料として、修養会よろしくテーマを深めていくわけで、もちろん分科会のようなものがあっても差し支えありません。後は企画次第となるでしょう。『パワー・フォー・リビング』をお読みになりましたか。あれは、一般の人のための本ではありません。信仰をもっている、あるいは聖書を知っている、そういう人が、リバイバルするための本です。アメリカであれが配られたのは、日本でいえば仏教の神髄を改めて知らせるような意味があるからであって、キリスト教の地盤のない日本で、聖書について何も知らない人に配って効果があるという代物ではありません。あれは、むしろ教会の信徒のためのテキストです。あれを、無料で手に入るからと喜んで送ってもらい、それを、初めて教会に来た人に配ればよいなどとしている教会は、およそ伝道について何も考えていないと見られても仕方がありません。あの本を、教会員全員に配り、それについてとことん話し合うというような特伝は、なんと実入りのある、すばらしいものになるでしょうか。

 

 

3.メッセンジャー

3-A.現教会スタッフ

3-B.友人・知人の教役者

3-C.エヴァンゲリスト(プロの伝道師)

 目的やスタイルによって、このあたりも選択が見えてくるかもしれません。 

 3-A.は、2-A.のような講演会ならば可能でしょうし、むしろそのようであるべきかもしれません。ただし、コンサートは事実上そうはいかないでしょうが……。場合によっては、1-A.や2-B.であっても、現教役者で可能な場合があります。それは企画の問題ですので、どうしても他のゲストをお呼びしなければならないというきまりは、ないのです。

 3-B.が現状です。ここが、実は一番のネックではないかと考えています。一定の時期に、知り合いに声をかけて順繰りに教会を巡っていく「しきたり」のように見えるからです。ですから、いわば伝道師の「プロ」ではありません。事実満足に「招き」さえ行われないこともありますし、またそれが「できない」のではないかと推測されるケースもあります。話題はそのゲストの関心事について披露されはしますが、はたして本当にキリストに招く迫力があるのかどうか、怪しい場合もあります。この教会に今必要なのは、この人のメッセージである、という祈りと確信とをもって、講師が選ばれているでしょうか。

 3-C.が招かれないのは、交通費などの費用の面もあることは理解できなくもありません。しかし、たとえば関西から招いても4万円を超えるようなことはないとすれば、価値ある4万円であるかもしれません。全国を年中巡り歩いているプロの伝道師によって、福音を伝えて戴くというのは、信徒の立場でも益になります。また、そうした、まさに「特別な」ゲストとなれば、どうしても人を連れて来なければ、という気持ちにもなるでしょう。福岡市からゲストを招くとなると、またいつでも聞けるというふうな思いも混じりましょうが、遠方からとなると、招き方も違ってきます。もちろん、こうしたプロであれば、きっちりと福音を伝えてくださいます。そして、目指す教会に着いたときに、そういう人は、においを感じるものなのです。「この教会にはこういう霊がはたらいている、だからあの話はやめてこの話をしよう」とか「こういう話し方をしなければならないだろう」とか、瞬時にして霊が示すものなのです。プロは、原稿通りに話しませんし、準備したプログラムどおりにするということはありません。それがプロです。また、こうした方々は、超教派で動いていますから、福音的なプロテスタントであれば受けて戴けるはずです。もちろん、多忙ですから早く声をかける必要がありますが。

 それから、特伝講師には、そのフォローについても報告をする必要がありましょう。その後求めた人が、あの講師にまた相談したいというケースもあるかもしれないし、何より、プロであれば、成績が気になります。せめて、特伝の感想なりともきちんとお送りして差し上げて、それをまた祈りの素として受け止めて戴かなければ、反省のない催しは、進展する要素がありません。

 

 

4.時期

4-A.秋

4-B.その他の季節

4-C.通年または分散

 4-A.のごとく、特伝が秋に行わなければならない、という決まりもないと思われます。収穫の秋という気持ちからくるのでしょうが、麦の収穫は初夏です。ユダヤの収穫はこちらです。それに、秋の日曜日は、地域の運動会や様々な行事が目白押しで、そもそも誘っても無理ということが少なくありません。それこそ講師の都合で、町内の集いの日曜日を選んだということになるのは、本末転倒であるとも言えます。少なくとも、地域の予定を調査してからこちらも計画を立てる必要があろうかと思いますが、秋の時期は、学校も含めて、毎週のように何かと行事が入っているのが通例です。地域でそれがなくても、職場やサークルあるいはレジャーなどの盛んな時期に敢えて特伝をする理由は何でしょうか。この後の、クリスマスあるいはイースターに受洗という、教会側の論理だけで決められていないでしょうか。呼ばれる人の都合というものには目を向けなくてよいのでしょうか。

 そこで4-B.となりますが、たとえば春あるいは初夏という、思い切った方法が考えられます。連休は別格としても、たとえば公的な催しなどからすると、春の終わりのほうは、案外空いている事情があります。というのは、この時期に開催するのは、新年度が始まってすぐであるために、なにかと準備がしにくい事情があるからです。地域には、町内運動会のようなものがありますので、そうした予定を外さなければなりませんが、秋に比較すると、予定が空いていることが予想される時期だといえます。また、梅雨の時期のような時だと、レジャーももともと計画されない傾向があり、6月という設定に意味が出てきます。

 また、冬のクリスマスを、特伝として位置づけることも、不可能ではありません。ゲストなどに支障がありましょうが、それは企画次第です。

 礼拝出席者数が多い時期はいつでしょうか。年により異なりますが、初夏から夏のほうが、秋より多いのが最近のこの教会の傾向です。10月、11月というのは、特伝が行われているにも拘わらず、一年の中でも少ない時期となっています。信徒すら少ない時期が、どうして特伝であるのか、考え直す必要があるのではないでしょうか。 

 4-C.は、カルチャースクール的講座にした場合です。こうなると、人を集める技術は、また従来のものとは違ってくるはずですが、教養を求めるとなると2-A.を前提にしているといえるかもしれません。

 

 

5.テーマ

5-A.福音の原点

5-B.求道者のニーズ

5-C.講師の関心のままに

 特伝は、当然5-A.であるべきだと私は考えます。キリストの救いを伝え、キリストに出会う場となるのでなければ、開く意味がありません。そうでなければ、特伝というものをなくしてしまうべきだ、と考えます。聖書教養講座のほうが、よほど人が興味をもつでしょうし、ためになります。コンサートのほうが、よほど楽しいでしょう。あるいは、信徒の修養会のほうが、リバイバルのためにずっと有益でしょう。 

 5-B.は、テーマというよりも、対象を講師に絞って戴くという狙いです。たとえば、今教会には、年配の方が人生の生きがいを求めて来ているから、そういう人に届くためのテーマを祈って考えて戴く、などというものです。子育てに悩む母親をターゲットにして、子どもを育てる意味、あるいは未来を考える、というふうなテーマでもよいわけです。その上で、救いに導くことは、プロの伝道師ならば必ずできます。ここが、並の知人牧師ではできないところです。だから、プロにお願いするという案が成り立つのです。

 どなたもお気軽にお越しください、というのは、誰も来ないということに等しい。これが、人集めの世界の常識です。ターゲットは、絞らなければなりません。可能ならば、R-35などと指定したほうが、人は集まってきます。それゆえに、特伝を数回に分けて、年齢ごと、あるいは性別ごとなど区切って行うと、人は最も関心をもつことでしょう。男の料理教室、しかも40歳以下、などと限定することによって、申し込みが増加するのが、人を呼ぶ常識です。一度の特伝でどんな人をも集めようとするのは、どだい世の中から背を向けていることになります。そのような無知から企画して、人が来ないと嘆いても当然ですし、選ばれた人がひとり来れば、などと奇蹟を求めてよしとするのでは、ますます教会は地域から閉ざされていき、カルト的危険視されていくばかりです。 

 5-C.は、その講師が社会運動に関心があれば、社会運動の宣伝をしに来る、というふうなことになります。政治的な主張をしに来てもらうとなれば、教会はそれなりの覚悟が必要になるでしょう。キリストの救いという核心を離れたところに重きをおくテーマは、日頃の礼拝の中で続けていらっしゃればよいのであるし、キング牧師のように、大きな運動の中で演説をなさればよいことです。いつもと違う視点だからよいではないか、というのであれば、それは信徒の修養会として成立させる場合に言えることであって、特伝として1-A.を考えるのならば、とことん救いそのものに的を当ててもらう必要があろうかと思います。

 可能な限り、5-B.の背景を、メッセンジャーに伝えておく必要があるでしょう。テーマもその意味で、こちらで祈り求めて、しかも早めにお知らせするのでなければなりません。まさにそれこそ、教会が必要としている祈りであって、これがないのであったら、そもそも特伝など、なんのためにするのか、全く分からないでいることの証拠となってしまうでしょう。必要があるからするのであって、恒例行事としてするとか、知人の紹介やしきたり、ひどい言葉で言うならば牧師仲間の小遣い稼ぎのために開くような特伝は、何の意味があるのか、という問い直しを、私たちはしなければならない時期にきていると思います。

 

 

6.伝道ということ

 ここまで、特伝という言葉を使ってきましたが、これは一方的に、教会の側の論理に過ぎません。「伝道」というのは、道を伝えてあげよう、という、高い段から見下ろすような響きをもった言葉です。自分たちは「道」を知っている。おまえたちは知らない。だから、伝授しよう、という響きです。もはやそれは外に出す言葉ではありません。大学が主催する市民講座が、「無知な市民を啓蒙する」などと掲げたら、誰も来ないでしょう。伝道という言葉には、それと同じ響きがあります。

 ただでさえ敷居の高いのが教会というところです。これをいかに低くするか、私たちは考えなければなりません。それでいて、聖書というものについては、関心がないわけではないのです。聖書を通じて世界情勢を説明する、などという講座は、通常のカルチャーセンターではできないものですから、関心のある人は集まる可能性があります。

 教会に来ても、信仰を強要されない。金を要求されない。こうしたイメージが広がっていくように、教会はオープンにしていかなければならないと思われます。

 そのためには、私たちの側の論理で毎年おこなっている特伝というものを、完全に、それに招かれる人の側の視点に一度立ってから、検討しなければなりません。企業の視点で売ろうと思って商品が売れることはないでしょう。消費者の視線はどこにあるか、何を求めているのか、それが必要です。

 そのために、そうした基本からの問いかけが、なされているのかどうか、それを確認するために、上のような問いを作成してみました。もちろんこれ以外の選択肢はあってよいわけですが、それならそれで、この問題点をひとつひとつクリアしてから、特伝は計画されていってもらいたいものだと考えます。




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