とくでん
2005年10月
子どもたちにも、お友だちを案内しようね、と言ってカードを作成してもらいます。
日時や教会の地図などは、片面に予めプリントしておくことにします。それらの情報は間違ってはいけないからで、もう片面に、各自が楽しい案内文やイラストなどを描くようにしてもらうのです。
でも、その集会の名前をプリントしようとするとき、私はためらいました。そして、勝手ですが、正式な集会名をプリントせず、少し言葉を抜いておくことにしました。
収穫の秋というイメージからか、秋は各地の教会で、「特伝」が盛んに開かれます。
特急という言葉が特別急行の略であるのと同じように、「特伝」も省略によって作られた熟語です。「特別伝道」ということです。指す内容は、「特別伝道集会」のことです。
しばしばゲストの講師を呼びます。教会に何度か来た人も、ふだんと違う人の話で心に深くさしこんでくるものがある場合を想定しています。話の内容も、信仰を勧めるような話が盛り込まれてきますので、一歩踏み迷っているような人も、決心がつきやすいとされています。
また、初めての人も教会に来やすい雰囲気を作ります。これを機会に、またふだんの礼拝に出席するようになるのも素晴らしいですし、中には初めて来て心が捉えられるというケースも実際にあります。
さあ、これはよい機会です。福音を伝えましょう。
教会では人を誘い、案内し、広くアピールを始めます。
一つのイベントとして、案内を致しましょう。案内状を作り、郵送したり、手渡したりします。ポスターを掲示もするでしょう。新聞に折り込みチラシを入れるところまでは、普通なかなかできないようですが、貼れるかぎり公共の場所でも貼らせてもらう場所を探します。
新聞の地方版に、行事として載せてもらうようにすることもあります。宗教的なものはあまり歓迎されませんし、コードに引っかかることもあるかもしれませんが、講演会のように打ち出せば、教養講座のように問題なく紹介されることもあります。あるいは、クリスマスのような習俗となれば、むしろ載っていて当然かもしれません。
そもそも神社の祭りが掲載されるわけですから、教会のも大丈夫なのでしょうが、だんだん小さな宗教団体の集会まで載せなければならなくなると、支障が起こる懸念があるせいか、教会でも、あまりそうしたメディアを頼りにしない傾向があるようです。
私は、信徒の優等生ではありません。特伝に人を多く誘うということが、できていません。
京都の牧師は、いざその時になって誘ってもだめだ、と言いました。また、誘うというのは、口で誘うことがすべてではない、とも言いました。ふだんから信頼されているか。ふだんの生活をどう見られているか。あんな人がクリスチャンであるならば教会になんか行きたくない、と思われるようなことがありはしないか。それより、あの人が信じているなら一度行ってみようか、と思われるような人間であれ、と突きつけるのでした。
そうした、人格的な問題については、今はとやかく申すつもりはありません。個人の問題としてでなく、少し違った見方をしてみようか、と思うのです。
はたして、「特別伝道集会」という言葉を聞いて、一般の人がどう思うだろうか――と考えることがあります。
特別というのはよいとして、気になるのが「伝道」です。案内される人にとって、この言葉はどう関係するかというと、「伝道される」です。私は伝道されるのです。道を伝えられるのです。つまり、それまで私は「道」を知らなかったということです。
そうです。教会にいる立場の人間にとっては、キリストこそ「道」であり、その「道」を伝えようとするわけですが、その伝えられる側からすれば、その「道」を知らない者と見なされていることが、「伝わって」しまう表現なのです。
強い求めの心がある人には、「伝道」でも構わないでしょう。しかし、ふと教会から呼びかけられた人が「伝道」と聞くと、なんだか高いところから見下ろされている感じがするのではないか、と思うのです。
塾へ学びに来た生徒が、「明日は三権分立について教えてあげよう」と教師に言われたら、それはうれしいことでしょう。しかし、通りすがりの大人に対して、「明日三権分立について教えてあげるから来ませんか」といきなり声をかけても、ちょうどそのとき政治制度に強い関心をもっている人ならともかく、たいていの人は拒絶反応を示すことでしょう。
もちろん、そんな状況にも拘わらず、選ばれた人だけが教会に足を運ぶようになるものなのだ、とという説明は可能です。でも、それでいいのでしょうか。私たちの配慮の足りないところを、変な理屈でごまかしているようなことに、ならないでしょうか。
教会は、誘われる側の心情を十分に考慮しつつ、ご案内をしているとは思えない、ということになるような気がしてなりません。
昔から「特伝」と呼んでいるではないか。昔からそういうものなのだ。毎年秋には特伝を開くものなのだ。そうしなければ教会は何も伝道していないように見られるかもしれないではないか。
ああ、これがビジネスだったら、会社は潰れることでしょう。新しい傾向を、波を、どうやって見抜くかに、商売人の目は注がれています。お客様にどのようなサービスをしなければ買って戴けないか、そればかり考えています。
教会は商売とはもちろん違うけれど、多くの人によいものを与えようとする点では、構造的に対極的なものとは言えません。商売にとり利益は目的ですが、利益だけの計算しかしないのは、悪徳業者と呼ばれる運命にあります。客にとり利点があるからこそ、会社に利益がもたらされる、という考え方のほかは、通常ありえません。
人の心には、いろいろな響き方がありますから、昔の方法がよい、ということも、きっとあるでしょう。ですが、昔ながらの雑貨屋は一部に残っても、コンビニの影響はそれをはるかに凌駕しており、そのコンビニが若者をはじめ人々の生活や考え方に影響を及ぼしていきます。
さらにそのコンビニさえ、新しいあり方がつねに模索され、探究されています。
単純な比較や思いつきで決めつけているわけではありませんが、「伝道」という表現のない、訪れた方々の心を満たすような、特別なイベントを開催することはできないだろうか、と、私はよく思うのです。
た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド