教会学校で真摯に語り続ける意味
2002年9月
マザー・テレサが国語の教材に現れた
2002年夏期講習の小学五年生の国語を担当しました。あるとき、カリキュラムの中で、マザー・テレサのことを書いた文章に出会いました。
ヒンズー教の古い寺院を施設のためにあてがわれたこと、そのとき、辺りの遊び人たちがマザー・テレサの笑顔のせいで仕事を手伝ってくれたことが前半に書かれてありました。後半は、有名な彼女の考え方、つまり、誰しも神に愛されて、必要があって生まれてきたのだ、貧困や病気よりも、それを知ることなく誰からも相手にされずに死んでいくことが最も不幸なのだ、という言葉とその実例が描かれていました。
設問そのものは、そう難しいものではありませんでした。このマザー・テレサの思想を理解するならば、どれも簡単に答えられるものばかりです。
私は一計を案じました。
中身を伝えよう。正答を作るテクニックという観点ではなく、このスピリットそのものを五年生に語ろうではないか。
まず、インドで人が倒れている様子を、できるだけ理解してもらうことにしました。そこに人が一人倒れていたら、声をかける気になるかもしれません。けれどもインドでは、道ばたに何百人、何千人という単位で人が倒れている――もう、犬か猫がそこらにいる、としか見なさなくなるだろう状況を想像してもらいました。また、病院に行くお金もなく、そもそも自分の家と呼べるものさえないのだという現実は、塾に来るほど裕福な(と敢えて呼ぶことにします)子どもたちには、前提として最初に把握させておかなければなりません。
たとえ死ぬしかないにしても、道ばたで動物同然のまま一生を終わるか、それとも最後に「あなたも望まれて生まれてきた、大切な一人なのです」と手を握ってもらって死んでいくか、これはまったく違うものだ……子どもたちは、この点は案外よく理解してくれたと思います。
もちろん、マザー・テレサが神に示されて若くして両親のもとを出て、インドに渡ったことなどは最低限伝えておかなければなりません。なにしろ、マザー・テレサの名前を初めて聞く子どもが半数以上です。知っていますかの問いに、何人かの女子と少数の男子が、知ってる、という顔でうなずきましたが、彼らが小学校に入学する少し前に亡くなったというように、これがごく最近の話なのだということさえ分からなければ、遠い昔話のように聞き過ごしてしまうかもしれません。
文章の中には、マザー・テレサの大切な言葉として、先の言葉に加えて、一番不幸なことは、貧困や病気でなく、誰からも相手にされずに死んでいくことだ、というものがありました。そこで私は、ホワイトボード(黒板でなく、白板)に大きく、「愛」と書きました。
「『愛』の反対語は何でしょう」
五年生でも、この答えは出てきません。
「普通は『憎』、つまり『憎しみ』でしょうね。国語の問題にあったら、そう書いておいてください」
両方に矢印のついた線を書いて、その言葉を記しました。
「でも、マザー・テレサは、『愛』の反対は『憎しみ』ではない、と考えました。それとは別の言葉を、『愛』の反対だと訴えました」
憎しみ、争うことは、よいことではありません。できるなら、平和であるのがよいに決まっています。しかし、相手を憎むということは、相手が相手であるとして、その存在を認めていることに違いありません。『いじめ』はどれもいやなものですが、最もつらい『いじめ』は、もしかすると、何の相手にもされないこと、そこにいてもいなくてもいいような存在として無視され続けることであるかもしれません。
もう一つ先と同様の矢印を別の方向に書いて、そこには「無関心」と書きました。
真剣に語るおとなに子どもはついてくる
キリスト教の教義を羅列することはこの際狙わず、神さまに与えられたいのちを認め合うという、誰にでも通じる事柄を、語り続けました。神、神と連呼しなくても、さりげなく語れば、背景に神さまがいるという空気を保ちつつ語ることは可能だと感じました。
驚いたことがありました。子どもたちの顔が違うのです。目が、真剣な眼差しをしていて、一言漏らさず私の言葉を聞こうとして、顔を上げています。
通常の授業なら、こうはいきません。分かり切っていることや、まるっきり分からないことのとき、どうしても子どもたちの注意力が殺がれてしまいます。よほど興味を引くように語っても、全員漏らさず注目しているということは、実のところありません。
それが、すべての目が、食い入るようにこちらを見ているではありませんか。中には、明らかに目が潤んでいる子もいます。息を止めて聞いている子もいます。
子どもたちは、聞く耳をもっているのだ、と思いました。
さらに考えました。こういった真摯な内容の話を、子どもたちは求めているのに、もしかすると、おとなが堂々と語っていないのではないか、と。
おとながどこか斜に構えて、「まあ、そんなこともあるけどね」とシニカルに世間を評するばかり。たぶん親が真面目な話をしない。親が子どもを説教するということもほとんどない。伝わる政治家の姿は、不祥事に関するものばかりで、人々のためにすべての力を注いで奔走している政治家の話など紹介されない。近所のおとなも子どもに注意をしにくくなった。へたに声をかけると子どもに何をされるか分からない、あるいは、その親から逆恨みを買うかもしれない。学校の先生も、友だち気分なのがよいと勘違いされ、子どもの機嫌をとるように向かう。そうしないと、厳しく躾ればむしろ保護者から苦情がくるかもしれない……。
多分に、自分がそうした真面目なことを語るだけの価値がない、自信がない、と考えているせいであるかもしれません。
語る言葉の一部を切れば、血が流れてくるような真剣な話を、おとなが子どもに対してしなくなっています。
でも、たぶん、子どもはしてほしいのです。真っ向から、人生を賭けて語るようなおとなの言葉を。
そう言うと、自分自身の生き方に自信がもてないため、とてもそんな真面目なことを語る勇気がない、とおっしゃる方がいます。自分で実行できていないことを子どもに押しつけるみたいで不誠実だ、と思う方もいます。でも、自分が完璧でなければ語ることができないとするならば、人間は誰一人、何も語れないことになってしまいます。義人は一人もいないのですから、イエス一人の言葉しか、伝えることはできません。それはそれで、聖書の理念に適っているとは言えますが、それではあまりに寂しいのではありませんか。
塾での教壇は、一種の舞台だと私は考えています。役者のように、感動を与えなければなりません。たとえ自分にそのことが実行できていないとしても、役者のように語ることは許されてしかるべきです。むしろ、役者が役を演ずることでその役のように現実になろうという気になることがあるように、私たちも、語ることで、そのような人間になろうと決意することがあってよいでしょう。いえ、さらに言えば、子どもたちに理想を語ることで、そのことを実は自分自身に向けて語っているのだ、と理解してよいはずです。
教会学校の教師にエール
教会学校に来る子どもたちのことを、いつも不思議に思います。ほかのイベントやアトラクション、スポーツクラブに比べて、教会学校というところは、特別に面白いところではありません。やっていることは正直ぱあっとしないし、ごちそうが出るわけでもありません。お金ももらえません。でも、つながる子はつながるのです。教会学校に自分に居場所を見つけて、そこに平安を覚えます。もっとほかの人のために何かをしたい、という気持ちになります。なぜて゜しょう。
それは、教会学校の教師が、照れたり衒ったり、ごまかしたり斜に構えたりしないで、真正面から大真面目に、強い信念を持って福音を語るからです。上で記してきた、真面目に語らないおとなたちと正反対の姿を、教会学校の教師は毎週実践しているのです。
教会学校の意義は、そこにあります。教会学校の教師の皆さん、熱く、真摯に語り続けてください。子どもたちは、必ずついてきます。
子どもというのは、年齢で決められているものではありません。迷いの中にある青少年たちもそうです。世の中で道を踏み外して、誰からも相手にされないような人々も、そうです。アーサー・ホーランド先生のまわりには、子どものような目をした元ヤクザの人々が、集まったではありませんか。ダビデのまわりには、困窮している者、負債のある者、不満を持つ者が次々と集まったではありませんか。イエスの元に、罪人と呼ばれる人々が救いを求めて集まったではありませんか。
マザー・テレサが告げたように、真摯に語ることは、「無関心」と対局にあるものです。
た
か
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ワ
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