語り伝えよ、子どもたちに
2002年6月
2002年2月、みすず書房から、『語り伝えよ、子どもたちに』という本が発売されました。著者は、スウェーデンのS・ブルッフフェルドと、P・A・レヴィーンという歴史学者、そして中村綾乃が日本の立場から書き加えています。高田ゆみ子の訳、高橋哲哉の解説により、真っ白な美しい表紙で調えられました。
サブタイトルは、「ホロコーストを知る」。
冒頭に、旧約聖書のヨエル書1:1-3が引用されています。
老人たちよ、これを聞け。すべてこの地に住む者よ、耳を傾けよ。
あなたがたの世、またはあなたがたの先祖の世にこのようなことが起こったか?
これをあなたがたの子たちに語り、
子たちはまたその子たちに語り、
その子たちはまたこれを後の代に語り伝えよ。
もちろん、ホロコーストというのは、第二次世界大戦中の、ナチス・ドイツによるヨーロッパのユダヤ人の大量殺戮のことです。
日本人は、このホロコーストのことについて、どれほどのことを知っているでしょう。おそらく、あまり関心がないのではないでしょうか。ユダヤ人の問題について、あまり意識がないというのも、地理的に無理からぬことかもしれません。あの杉原千畝さんのビザ発行さえ、最近まで日本では何の価値も認められずにいたのですから。ただし、杉原千畝さんのビザ発行によって、日本の神戸にユダヤ人が多く流れ着いた点は、逆に言えば、日本がユダヤ人問題に無頓着であったがゆえに、成功したと言えるのかもしれません。
この本は、かろうじて生き延びた人々が語った証言や、彼らの描いた絵などを集めて編集した構成となっています。
人間は、こうも悪魔的になれるのか、と驚愕します。筆舌尽くしがたく、また、できるなら目を背けたくなるような記述の数々……それが、歴史学者の編集らしく、資料として淡々と伝えられていく。それだけにいっそう、読者は、これだけの悪事に憤りを禁じ得なくなる……。
戦争が、人間を狂気に変えるのでしょうか。
ここに集められた声の持ち主は、著名人でもなく、為政者でもありません。ふつうの生活者が、大多数の庶民の目から見た、殺戮の姿が記録されています。歴史の教科書のように、もっぱら為政者側からの記述ではなく、歴史書にはけっして残らない、一般庶民の眼差しが記されています。
それは、私たちの姿です。私たちが戦争に加わるとき、ときにこのような残虐行為をなす側になり、ときにそれを受ける側になるのです――。
1991年以降、ヨーロッパ各国の大統領・首相は、次々と、自国民の手によるユダヤ人迫害を正式に謝罪するなどしています。1991年のポーランドを初めとして、1993年にオーストリア、1994年はハンガリー、1995年にスイスとフランス、1999年ノルウェー、2000年にオランダ、スウェーデンと動きがありました。謝罪や補償が、ドイツでなく、むしろドイツによる被害者とも言える国々によって、行われているのです。当時のドイツに輸出を続けてドイツの経済を支えたという責任を認めている国さえあります。
フランスのカトリック教会は、1997年、驚くことに、「ユダヤ人迫害に沈黙を守ったこと」について、謝罪をしています。
日本は、ユダヤ人に対する憎悪もとくになく、この迫害に関しては、手を下したとは言いにくいかもしれませんが、ドイツ側についていた点で、道義的にでも責任を感じることはできるはずなのですが、そういう意識は、どうやら皆無のようです。
旧約聖書には、神がイスラエルに与えた律法を、子どもたちにしっかりと教え、いついかなる場合でも語り伝えるように指示している箇所がいくつかあります。
それだけ、子どもたちに熱心に教え伝えたからこそ、千九百年間にわたり国を失いさまよいながらも、一つの精神のもとに再び集まって建国できたのでしょう。そのことでまたパレスチナの地に争いが起こっていますが、だからユダヤ人が悪いなどと、私たちは言えた立場ではありません。
この本によれば、ナチスは、戦争中、150万人のユダヤ人の子どもたちを殺害しています。ヨーロッパにいたユダヤ人の子どもの、10人のうち9人が殺害されたというのです。
それでも、生き残った子どもたちは、見たこと、聞いたことを伝えました。伝えなければなりませんでした。その子どもたちもまた、それを伝えるでしょう。
ユダヤ人だけが伝えればよいのでしょうか。人間がかくも残虐になれるということは、ユダヤ人だけが背負った運命として片づけられるのでしょうか。
著者は、本の最初にある「日本の読者へのメッセージ」を、次のように締めくくっています。
私たちは、この本が日本におけるホロコースト理解と、当時の日本の対応について活発な議論が行われるのに役立つよう願っています。……もし民主主義が失墜したときにいったい何が起こるのか、そのようなことも話し合ってほしいと思っています。しかしこの本は、そのための出発的としての役割を持っているにすぎません。それから先は、皆さんひとりひとりがみずから理解を深めるようにしていただきたいと思います。(p7)
本の終わりは、解説者が、こういう内容を述べています。
杉原千畝が数千人のユダヤ人を日本に救ったころ、日本人は、中国大陸や朝鮮半島で、当地の人々を強制収容し、人体実験をし、細菌兵器を使い、女性を性奴隷としていた。これらについてこそ、私たちは言わなければならない。「語り伝えよ、子どもたちに」――
しかし、自国の恥部を指摘するような行為があると、すぐに反応して、「自虐的」という言葉で罵る人々がいます。一部の為政者は、必ずそうします。
自分の罪を認めることが「自虐的」であり否定されるべきことだと信じ込んでいる人がいます。その人は、もっとも神から遠い人でしょう。なにしろ、自分は悪くない、自分は神だ、と考えているようなものなのですから。(このことを記したコラムは、「たかぱんワイド」の「教会は楽しい」の「炭火」の「2002年6月」にもあります。)
最後に、教会に生きる者にとって、もっとも語り伝えなければならないであろうことを、付け加えます。
キリスト教会は、そもそもイエス自身が十字架につけられるということに始まり、その弟子たちもずっと、最初は迫害される側としての歴史に登場しました。けれども、教えが世界に広まるためとはいえ、ローマ帝国の国教となってから後、政治権力と一体化する歴史を刻んでいきました。その中で、意に添わぬ者を迫害する、加害者の側になっていきました。異端審問や魔女裁判で殺人を正当化し、世界宣教の美名のもとに、いくつもの文明を滅亡に至らせました。キリスト教の責任とはいえないにしても、キリスト教思想から生まれた科学文明が、今巨大な力となって、人類を滅亡に追いやる可能性を秘めて取り巻いていると考えられなくもありません。
弱者の救済のために生涯をささげた多くの信徒がいる一方で、こうした過ち、あるいは責任の一端を担うようなことが、たくさんあるのも事実です。それがゆえに、キリスト教は自分勝手で世界を滅ぼす犯人そのものだと断定する本さえ、最近何人かの日本人が著しています。誤解や思いこみの部分もあるにせよ、教会に生きる者として、こうした歴史に目を瞑ることはできません。
それどころか、かつての魔女裁判を行っていた者が、「自分たちは神のために正しいことをなそうと願いしている」と思いこんでいたように、私たちも、自分では正しいと信じて押し進めていることが、実は人を虐げているということが、ないでしょうか。聖書が「らい病人」を癒す話を繰り返し語ることで、その病気の人を不愉快にしていたかもしれないように。
はたして教会は、こうした自らの行いを、「語り伝えよ、子どもたちに」と、明確に宣言しているでしょうか。
た
か
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