色覚の問題から配慮について考える

2003年5月

 インターネットのサイトのデザインは、日に日に美しく変身していきます。Javaスクリプトを遮断してまずサイトを開く私としては、それではだめです、の警告を受けてはスクリプトをオンにして(これが、愛用のSleipnirならワンタッチなのです)、初めてクリックをさせてもらったりします(おいおい、「たかぱんワイド」はどうなのだ? でも、オフにしていても、違和感なく開けますよ)。さらにActive-Xをオンにしないと、Flashの表紙が開かず、にっちもさっちもいかないという事態も、珍しくなくなりました。
 ホームページ作成ソフトが優れているのでしょうか、素人さんのサイトも実に美しい。センスがいいというのか、洗練された、都会的なデザインとでも言うべきか、スマートでなかなか美しいのですね。
 大きな文字でダダダッと並べられると、どうも「ダサイ」という感じがしてしまいます。小さな文字のほうが、「カッコイイ」と思えます。……ただ、あまり小さいと、見えにくいのも正直なところ。年齢のせいでなく、事実、見えにくいのです。活字がつぶれてしまって、画面に目を近づけても、よく分からないわけです。
 さらに困るのが、色合い。薄い色、淡い色は可愛い感じがしないでもないのですが、どうにも読みにくい配色というのもあります。
 私は普通に色が分かるつもりですが、それでも見えにくいのです。

ライン 教会 ライン

 私は身近に色弱者がいて、緑一面の草の中に、赤い小さな花があっても見えない、という状況をよく知っています。小学校では、もう色覚検査をしなくなりました。するべきだ、という声もありますが、実際差別ばかりを生む検査が、実際上大した意味もなくここまで続けてこられたことについては、不思議な気もします。依然として、色盲・色弱であるというだけで、完全に職業への道が断たれることはたくさんあり、それも、「信号が分からないから」という偏見に満ちた理由からそうされているようなことも、しばしばあるそうです。どれが光っているかについては、分からないことはまずないのに!(最新式の信号機は、逆に見えにくくなっています。それは、色覚に問題のない私でも、見えにくいと感じることがあるので、色彩が明確であるというメリットはあっても、見え方の点で検討の余地があるのではないかと考えています。)
 ネットのサイトでも、この色合いは、かなり見えにくい人が多いのではないか、という場合があります。

ライン 教会 ライン

 バリアフリーが叫ばれても、車椅子の方や目の見えない方の問題としてしか一般には思われていないのかもしれません。
 色が見えにくいという人は、少なからずいます。そしてそれは、外からの見た目では区別がつきません。明らかに白い杖をもっていたり、手話を使ったりということがないからです。もちろん車椅子にも乗っていません。何もかも他の人々と同じようでありながら、本人だけが、ある色合いについては、見えにくい、あるいは全く区別がつかないというわけです。
 インターネットは、聞こえない方でも対応しやすいし、見えない方への音声対応も徐々に開発されてきました。でも、サイトのデザインについては、色弱の方への配慮という視点は、どれほどポピュラーになっているでしょうか。
 また、配慮しましょうということになっても、どんなふうに見えるか、細かな理解は困難でしょう。個人差まであるようですから、この色にはこの色がいい、というふうな画一的なルールは決めにくいかもしれません。
 ただ、原則として、健常者(ときに響きの悪い言葉ですが、一応使わせて戴きます)でもいくぶん見えにくいかな、という気持ちが入る色合いは、使わないようにすれば、かなり配慮した部類に入ることでしょう。緑のバックに赤い文字はやはり読みにくいし、淡い色の背景に淡い色の文字は、やはり読みにくいのです。
 色覚についてアピールをしているサイトはいくつかありますが、関心のある方は、簡単で分かりやすい紹介として、色覚科学研究会(CBSS)を参考になさるとよいかもしれません。

ライン 教会 ライン

 配慮というのは、どこまですればよいのか、どこまでしなければならないのか、判断の難しいものです。でも、誰が見るか分からない、インターネットのページでは、小さな文字の羅列や、わずかでも見えにくいかなと思われる色彩の組み合わせを避けることは、していきたい配慮に違いありません。
 公開されているということは、誰が見るか分からないということです。すべての人に配慮するのは難しいにしても、こうした人がいるということを知るだけで、せめて、いくらかでも変わっていくことはできるのではないでしょうか。

ライン 教会 ライン

 さて、こうした配慮は、教会においても同様です。
 いろいろな経緯(信仰と親交を参照)で、教会のポスター作成は私に依頼されなくなってしまいましたが、その後はたぶん牧師自らポスターを作成しているのだと思います。この春のイースターのポスターを誰がどう作成したのか詳しいことは知りませんが、牧師がおそらく説明の言葉やキャッチコピーは考えた点は、間違いないだろうと思います。
 正確には引用しませんが、そのキャッチコピーの意味は、「ほんとうの愛を知りたいとは思いませんか」という内容でした。
 聖書は、そして教会は、しばしば、「ほんとうの神さま」はここにあると語り、たしかに子どもたちにもそのように教えます。聖書の教えとして、それは間違ったことではありません。
 しかし、初めての人を教会に招こうとするポスターや案内チラシの誘い文句が、「ほんとうの愛を知りたいとは思いませんか」という調子は、どうでしょうか。私には、いかにも「教会に来ていない人は、愛などは知らないのだ」という高飛車に響いて仕方がありません。若い女性の図柄をポスターのデザインに取り入れるどころの問題ではないと思うのです。……端的に言って、私が教会の案内を見た外部者であったとしたら、「何をバカにしているんだ」と怒るでしょう。
 教会員の人々の顔色をたえずうかがいつつも、教会を外から見ている人の立場には立つことができない姿勢は、残念に思います。ここは、配慮が必要な場面ではなかったでしょうか。
 それほどに、配慮というのは難しいことではあるのですが。


Takapan
沈黙の声にもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります