ノンクリスチャン
2009年4月
教会生活が板についてくると、それまで使ったことのない用語を使うようになることがあります。聖書に出てくる言葉であれば、何も信徒に限らず使うでしょう。しかし、聖書に載っているのでもないのに、どういうわけか、多くの信徒が使うようになる言葉です。
その一つは、「クリスチャン」に対する「ノンクリスチャン」という言葉。
前者の「クリスチャン」は、使徒言行録に載っています。信徒たちの呼び名として、そのように呼ばれるようになったという記述があるのです。しかし、その時期以後もパウロはその呼び方を使わず、「聖なる者」といった言い方をして、今日でいう実質「クリスチャン」という内容を指す言葉を使っていました。
けれども、「ノンクリスチャン」というのは、聖書にはない言葉です。当然、クリスチャンでない人、という意味です。
私は、この言葉にどうしても違和感を覚えてしまいます。というのは、この言葉が使われるときの響きの中に、「救われていない人」「まだクリスチャンになれない人」のような、どこか見下げたような空気が漂う場合があるように聞こえることがあったからです。
もちろん、基本的には、クリスチャンでない人、という意味であるし、たんにそのような立場の人のことを対比させて伝えるときに使うのに便利な言葉ではあるだろうと思います。必要があってこそ生まれた言葉ではあるだろうと思うのです。しかし、上に挙げた差別的な意味合いも、どこかに紛れ込んでくる可能性のある表現であることも確かであろうと思ったのです。
どうかすると、クリスチャンが、高みに立つような構造が、見え隠れするのが、嫌に思えるのかもしれません。それが果たして、この言葉によってその構造ができるのか、元来その構造があるからその言葉に現れてくるのか、そのあたりは分かりません。もし後者であるとすれば、非常に悲しいことです。
というのは、キリスト教の精神は、世の中で低い側の者が、神に近いという基本構図にあると思われるからです。最も弱いところが最も役立っているという視座を見失ったところに、キリスト教の命はないのです。それが、つの間にか、クリスチャンが知識人や上流階級のようになっていくと、実はそのクリスチャンとやらは、新約聖書の中のファリサイ派や律法学者、祭司長たちの立場になってしまっているわけです。一番問題なのは、当のクリスチャンたちがそれに気づかず、自分たちこそはまだ神に愛されており、神を知らない人々は哀れにも救いを知らず、自分たちが伝えてやらなければならない、などという思いに染まっていくことです。冷静に捉えると、これこそが、イエスの非難した相手であるファリサイ派の考えそのものであるわけですから。
そうすると、かの「ノンクリスチャン」という表現は、私たちを、そのようなファリサイ派へと導く言葉にもなりかねない、ということになります。
実に、原始教会の時代、イエスをキリストだと信じた人々は、もはやこの世に戻ることができないくらい、隔絶されたところに生きるのが当然だ、と考えていたふしがあります。パウロの手紙で、結婚問題を論じたところが第一コリント書にありますが、そこで扱われているのは、夫婦のどちらかが信じたらもう別れなければならない、というような常識があったという問題です。
信じたら、もはや普通の社会には戻れない。それは異様なことでしょうか。いえ、今でもあることです。とくに異端と呼ばれているグループはその傾向が強く、社会問題となっています。とくに終末に熱心になったグループは、隣国でも近年問題になったことがありました。
まさにこうした思想や立場に染まってしまうと、最悪の「ノンクリスチャン」的視野で世の中を見ているとも言えるでしょう。
もう少し聖書の中に尋ねてみましょう。
実は表面上の言葉としては出てきていなくても、実質同じ概念を現している言葉というのはあるもので、先の「聖なる者」のように、今私たちが使う「クリスチャン」「キリスト教信者」の意味で使われていた言葉が、聖書にはあるものです。では、「ノンクリスチャン」はどうなのでしょうか。
私は、それは「異邦人」だと思っています。
もちろん、同一ではないのですが、元来ユダヤ人は、同胞ユダヤ人と、異邦人とに人類を区別していました。イスラエルの神を信じ従う者は、人類学的系統的にユダヤ人のDNAを有していなくても、ユダヤ人として招き入れる考えをもっていたそうです。そのとき、「異邦人」は汚れの中にあり交わろうとはせず、見下している相手でした。あのギリシア人でさえ、ギリシア人でない人々を野蛮人呼ばわりしていたのですが、ユダヤの場合は、宗教で区切っていたのが特徴的です。
つまり、ユダヤ人が「異邦人」と呼んでいたのはまさにユダヤ教徒でない人々、という意味ですから、現代のクリスチャンが「ノンクリスチャン」と呼んでいるのと、構造的に類似していることになるわけです。
そうすると、聖書、とくに新約聖書で「異邦人」という言葉が出てきたとき、それを「ノンクリスチャン」と読み替えると、書かれてあること活き活きと伝わってくる、というケースが出てくるような気がするのです。以下、聖書の言葉の「異邦人」を「ノンクリスチャン」と換えて示しています。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。ノンクリスチャンでさえ、同じことをしているではないか。(マタ5:47)
それはみな、ノンクリスチャンが切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(マタ6:32)
それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。ノンクリスチャンの神でもないのですか。そうです。ノンクリスチャンの神でもあります。(ロマ3:29)
現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、ノンクリスチャンの間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。(一コリ5:1)
かつてあなたがたは、ノンクリスチャンが好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。(一ペト4:3)
そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、ノンクリスチャンと同じように歩んではなりません。(エフェ4:17)
神を知らないノンクリスチャンのように情欲におぼれてはならないのです。(一テサ4:5)
わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべてのノンクリスチャンを信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。(ロマ1:5)
わたしは、その証しのために宣教者また使徒として、すなわちノンクリスチャンに信仰と真理を説く教師として任命されたのです。わたしは真実を語っており、偽りは言っていません。(一テモ2:7)
もちろんすべてがそうだというわけでなく、純粋に遠い外国の人々という意味で用いている箇所もこれよりずっと多くあるでしょう。しかし、私たち現代のクリスチャンの意識の中で、「ノンクリスチャン」という言葉を軽く出してくる心理の一端が、ここに関係している、というふうに見ることは、たしかにできるのではないでしょうか。
イエスは、誰のそばにいるでしょう。イエスはたとえば、ホームレスの人々のそばにいる、と見てそこに手を差し伸べている教会関係の方々がいます。私はそれを、的確な眼差しだと感じています。心を閉ざして悩んでいる人々のそばにいる、と見て助けたいと願っている教会関係の方々がいます。それもそうだと思います。
しかしながら、その運動をすることがクリスチャンであるか、ということについては、私は単純には同意できません。それだけなら社会運動です。肝腎なのは、ここにいる私自身が、主に生かされていること、主のいのちを戴いていることです。その上で、そうした方々に手を重ねていくという動きをとるなどでなければ、意味がないのです。しかも、そのときに、私が高い立場にいるような思いが一瞬でも走るならば、私は主の側にいないことになるでしょう。私自身がテストされているようなものです。
教会が、いつしか立派な会堂を調え、社会的にもステイタスになり、ときに教会員にあらずば人にあらずといった世の中になっていったとしたら、それほど福音から遠いものはありません。私たちがなにげなく口にする「ノンクリスチャン」という言葉が、ほんとうに何の意味合いもなく論理的にのみ語られるのならばよいのですが、もしも「異邦人」の色を含んで語られるようなことがあれば、教会も信徒も、すべての立場を変えて、新約聖書の中でイエスが敵対している側に立ってしまうということになりかねません。
このことに、私たちは一度気づいて、この考えの渦を一度通過して、そこからまた新たな景色を感じとるために、主にある歩みをまた始めていきたいものだと思います。
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