西日本新聞2月13日の記事より

2005年2月

 この日の西日本新聞には、キリスト教に関して2つの注目すべきコラムがありました。
ライン 教会 ライン

 一つは、第一面。「いまこの時代に」というタイトルの許に寄せられた、作家の森禮子さんのもの。「声なき声の証人」という白抜き文字に「歴史の教訓、伝える遺物」と中央に大きな見出しが掲げられていました。
 まず、歴史書の編纂が中央中心であることから、マイノリティーの歴史が闇の彼方に葬られることを危惧していました。そこで、16世紀に伝えられたキリスト教のことが取り出されます。もしかすると今のクリスチャンよりも多い人数のキリシタンがいたとされる中で、日本キリシタン史には謎が多いのだと告げています。
 筆者は、福岡市に生まれ育ちました。そのことから、九州に花咲いたこのキリシタン文化について、その歴史が知られていないことを自ら痛感し、調べ始めたというのです。
 そうして、各地のキリシタンの歴史を語る遺跡や地名などが多く残っている九州のことがいくつか例を挙げて紹介されています。
 しかし最後には、それらの遺物が正当に扱われていないことに、怒りを発しています。天草のある歴史資料館では、数多くのキリシタン遺物が未整理で、乱雑に扱われ、保存措置もとられていない事実を明らかにします。一方で観光客を呼ぶための城の修理に金と時間を使いつつ、こうした資料の整理には予算がない、などと言い訳するというのです。
 また、いかにも美しく整備し直した記念碑に対しても、「キリシタンを邪教として成敗した無残な記憶をぬぐい去りたい気持ち」からだと言い、「人間性のなかにひそむ排他性や残虐性を認識し、おなじ轍を繰り返してはならないという歴史の教訓が生かせる」ようにすべく提案しています。
 なんという慧眼だろうと思いました。
 何かイデオロギー的な対立から、戦時中の残虐行為があったとかなかったとか反発し合い、互いに相手をなじっている対立があります。その一方は、相手を「自虐」だと一蹴します。そういう言葉さえなければ、歴史をきちんと調べようという意気込みを買いたいと私などは思うわけですが、どうにもそうした、痛みをやたら隠すような興奮を見ると、これは単に自らの痛みから目を背けたいだけの心理から言っているのではないだろうか、とさえ疑いたくなってくるのです。
 人間性の中には、残虐な部分がある。それを認めるからこそ、未来の平和に活かすことができる。そんなふうに、落ち着いて考えていく土台があれば、もっと冷静に純粋に歴史の問題として議論できるのではないだろうか、とも思うわけです。
 私は何も悪くない、とヒステリックに叫ぶことほど、怖いことはないのかもしれません。このコラムは、実に心の深いところに訴える力をもっていました。
ライン 教会 ライン

 もう一つ、同じ日のテレビやラジオの番組紹介の隅にあったコラムも、キリスト教に関係するものでした。
 それは、韓国ブームの中で、ソウル支局の藤井通彦という人が書いていたものです。「不思議の国から韓国の秘密を解く」という連載の第13回で、タイトルは「キョフェ」。見出しは「連なる十字のネオンサイン」となっています。
 その「キョフェ」とは、教会のことです。韓国にたくさん見かける教会のことから始め、キリスト教人口が、プロテスタント22%、カトリックが8%と言われる数字を挙げます。
 そして、韓国にキリスト教がこうまで浸透した理由として、幾つかを紹介するのです。
 まず、朝鮮戦争時、アメリカなどのキリスト教団体が支援にあたったことや、日本の植民地時代の抵抗運動の拠点になったことが挙げられました。
 それから、韓国土着の天の神なる思想との類似も示されています。
 コラムには書いてありませんでしたが、韓国のキリスト教は、韓国人が自ら学ぼうと意欲的に出ていって知り学んだきっかけがあります。何かあるはずだ、という求めが、受け容れる土台になったのであり、ただ熱心に伝道を受け、絆されて信じたというふうな発端ではありませんでした。
 それからコラムでは、韓国の礼拝の内容が紹介されます。現世利益的なところもそのまま伝えられ、ビジネス的にも生活に入りこんだものであると理解されていきます。
 大切な結論はこうです。「同じような顔をした日本人と韓国人も、その精神的背景がずいぶん違うことを理解しておいた方がよさそうだ。」
 大陸と島国であることも関係あるかもしれません。とにかく、背負った歴史が違うゆえに、性格的にむしろ対照的だとさえ言われることがあります。文法的には類似点が多いのに、考え方や性質はずいぶん違うというのです。それは、教会の信仰においてもそのようです。日本では、ペンテコステ系は激しすぎるという声もありますが、韓国ではそのくらいが普通であるかのように見えます。コラムに紹介されている賛美のみならず、祈りにおいても、ずいぶん日本の教会とはイメージが違うとのことです。
ライン 教会 ライン

 同じ日に、こんなに考えさせる、キリスト教についての紹介があるとは、新聞もなかなかすてたものではありません。
 そして、キリスト教会も、今ここに置かれた日本の教会としてだけの視点で未来を見るのではなくて、歴史の中の日本から、あるいは今の他の国から、未来を見ていく視点をもつことが、時に必要なのではないか、という気持ちにさせられるのでした。



Takapan
沈黙の声にもどります

たかぱんワイドのトップページにもどります