名前を出すとき・隠すとき
2003年2月
大きな病院で、患者を呼ぶ放送が入ります。
「心療内科受診の○○さん、三番にお入りください」
たしかに本人は分かりやすいのですが、これでは、本人以外の大多数の人にも分かってしまいます。○○さんが、心療内科を受診しているということが。
プライバシー保護の正反対であるように思うのは、私だけでしょうか。
もちろん、小さな病院でも同様ですが、待合室で顔が見えすぎるというのがよいのか悪いのか……疑問です。まして大病院でこうして名前が分かってしまうというのは、いやなものです。せめて、ハンドルネームは使えないでしょうか。「ホークス大好きっ子さん、三番です」なんて。
銀行でも、名前で呼び出されます。それも、ほかの名で呼ぶようにできないものでしょうか。順番を示す感熱紙のカードを取らせて、番号で呼ぶところもあるようです。味気ないのは分かっていますが、プライバシーの点からは、それでよいのでは、という気がします。
インターネットの世界では、実名は出さないのが通常とされています。
かくいう「たかぱん」も、まさにそうです。
実名どころか、住む地域や年齢さえ、表に出さないでやっていくことが可能であり、むしろ出さないほうがよいのだとされています。全世界に開かれている窓ですから、プライバシーを明らかにしないほうが、安全なのです。そうでなくても、どこぞより怪しい誘いの広告メールや、ウィルスメールが舞い込むのですから。
盗み見られたり攻撃されたりする可能性のある、通常のメールの中にも、電話番号や住所、カード番号などは書くべきではない、とされています。さすがに名前を書かないわけにはいかないのが普通ですが。
ネットの中では、名前は隠すべきです。
しかし、名前を出すべきではないか、という場面があります。
それは、正式に意見を述べるときです。掲示板の中で語り合うなどと違って、公的機関などに意見を述べる場合、あるいは、名前を明かしている個人に対して、議論を持ち込む場合などは、こちらも名のる必要があるものでしょう。
名前を出さないで済むのをいいことに、誹謗中傷をぶつける……そうした道具としてインターネットが使われるというのは、なんとも悲しいことです。そして現に起こっていることです。
自ら正義と称し、天誅を下す旨の攻撃を容赦なく送るのは、電話やファクシミリでもできますが、ネットではより気軽に、匿名的にできるのです。堂々と意見を述べるためには、匿名は似合いません。むしろ、陰に隠れて中傷したいがためにこそ、匿名性が利用されているわけで、必ず名前が割れる仕組みであれば、そんなことはしないものなのでしょう。
この冬の、万引き(この表現も軽すぎませんか。せめて窃盗くらいにしないと。「援助交際」のように助長するような響きさえ感じられるようになってきたみたいです)した少年が逃走して事故死したニュースから、書店主を苦しめる中傷が送り続けられたことは、すでに取り上げましたが、新聞紙上では、それが「いやーな感じ」(毎日新聞・余録2月4日付)などという意見でまとめられるようになりました。しかし逆に、励ましのメールなどとして、この書店主を助けるためにも、ネットは役立っているのも事実です。
他方、果ては自殺をするための共謀者を捜すためにネットが活用されたという事件も騒がれました。道具とは実に、どんな目的のためにでも用いられるものだなと感じます。
最近、企業の中で、名札をつけているところが多くなりました。
もちろん、顧客相手の係は当然以前から名札をつけていましたが、必ずしも顧客対応でなくとも、社内でつねに名札をつけている、という規則が作られているようです。それも、顔写真入りの大きなものを。
これは便利です。同じ会社とはいえ、全員を知っているわけではなく、また、うろ覚えで相手の名前を間違えるような失礼をも防ぐことができます。
こうした場面では、はっきりと名前を出しておくことはよいことだと思います。
教会でも、同じです。
教会の大小に拘わらず、名札をつけていると助かります。相手の名前を知らないこと、忘れていることもあります。
「いや。うちの教会は皆互いに知り合っているからそんなものはいらない」と言う意見もあります。
その教会は、黄信号ではないかと思います。新しい人が来ないと想定している教会だからです。内輪でまとまって完結しているだけの教会は、迫害下の教会であるか、秘密結社であるかのどちらかでしょう。
伝道しようという気持ちのある限り、新しい人が次々と現れることを前提しているものであり、そうなると、教会員が誰であるかをきちんと伝え、示す名札は、必要不可欠のものではないでしょうか。
教会が、組織と同様のサービスをしなければならない、教会がビジネスと同様でなければならない、という意味でそうするのではありません。敢えて言うなら、組織以上のサービスをしなければならない、という観点からです。
言っておくが、あなたがたの義が律法学者がファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。
(マタイによる福音書5:20)
新しい世相に合わせることに気を配る必要はないのですが、新しい時代の価値基準の中に、聖書の精神を見いだそうとする意志は必要です。本来「もてなし」の意味の「ホスピタリティ」を、ついに病院という機能に構築したのは、そうした思いをもつクリスチャンたちでした。いつまでも内輪の安定に終始していたのであれぱ、病院も社会福祉も生まれませんでした。
小さな名札一つのことと言わずに、現状を打ち破る何かを見いだそうという意志を温め、育んでいきませんか。新しい革袋は、今もなお目の前にあると思うのです。
些細なところに。
た
か
ぱ
ん
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イ
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