幼子の母親は教会に居場所を見いだしていますか
2002年5月
社会現象として、子どもの虐待が取り上げられるようになりました。
泣きやまない赤ちゃんを殺したという話、言うことをきかない幼児を折檻して死なせたという話……胸が痛みますが、連日のように報道されると、「またか」で片づけられるようにさえなるかもしれず、それもまた恐ろしいことだと思います。
昔は、兄弟も多く、子どもたち同士でケンカをしたり傷つけあったりしながら、社会性を身につけていたのが、今は兄弟が少なく(本当は、少子化は兄弟の数に基づくというよりも、子どもを産まない・結婚をしないおとなの増加が大きな要因です)、親が代わりに子どもをいじめて、傷つけられることを教えている……などと言うと不謹慎でしょうか。親も、子どもと向かい合う、あるいは子どもの生活を丸抱えするようになり、子どもの細かなことでストレスを覚えるのかもしれません。
しかし、世間のそうした親に対する眼差しは厳しいものがあり、その厳しい目を意識するあまりに、また虐待してしまう、などということもありうるでしょう。
「世間の一部である、私の眼差しが、子育てをする親を、とくに母親を、追い込んでいる!」
この言葉の意味がお分かりの方は、すでにもう、助けの手を伸ばしていることになると思います。逆に、それは何のことだ、自分とは関係がない、と断定する方は、加害者であることに気づかないまま、これからも過ごしていくのかもしれません。
キリスト教会だから、そんなこととは無縁、と、しばしば牧師などのリーダーは考えていらっしゃるかもしれません。
では、教会の礼拝にそれまで熱心に来ていた女性が、乳飲み子を抱えた母親、あるいは幼子を連れた母親となったとき、休みがちになっていることは、ありませんか。
まさか呑気に、「育児で大変だから、教会に来られないのだ」などと思ってはいませんか。
そうした母親にとって、教会は、最初から行きにくい所となってしまっていることに、お気づきですか。
礼拝中、子どもが騒ぐことほど、母親のストレスになることはありません。仮に牧師が「構いませんよ」とにこにこしてくれたとしても、ほかの信徒がたくさんいる中で、「では子どもを連れてきます」などと答えるならば、それはひどく厚かましい人間にしか見えないことでしょう。小さな子どもが泣く。走り回る。それは許されないことなのです。
それでも、「母子室」という名前で、会堂から一つ壁を隔てたところに引きこもってよい、という配慮がなされているところは多く、それなら十分気遣ったと考えている教会もあるようです。
残念ながら、母子室では礼拝に参加している気分にはなれません。
「いや。スピーカをつけたから、全部聞こえます」「ビデオも設置して、全部見えるようにしています」
残念ながら、それは、本人の助けにはまったくならず、むしろ配慮してあげたという満足さえ生むことになる、厄介な措置です。
母親は、まったく礼拝から疎外され、もちろん子どもの世話などで話など聞けず、かえってこの子どもの騒ぎが向こうに響いて人々に迷惑をかけてはいないだろうか、との気遣いが頭の中を占めているため、ストレスは増すばかりです。ですから、次のような結論になってしまいます。
「これなら、教会になど来ないほうが楽だ」
まさか、そういった母親に、「信仰が足りないからそんなふうに思うのだ」などと説教する牧師はいらっしゃらないでしょう。が、母親は多分に、そのように受け止めています。だから、引きこもってしまうのです。
善意が、弱い立場の人間を追いつめるということがあります。善意であればよいのではないのです。善意だから救いになるのではなく、善意が苦しめることだって、いくらでもあるのです。
牧師など教会のリーダーの方は、たいていの場合、自分がこの母親の立場になったことがありません。父親として子どもを育てていても、この子どもを一手に引き受ける母親の心情とは、かけ離れたところにしかいないのが普通です。
幼子をもつ母親は、ほとんどの場合、教会には受け入れられていません。
まず、この事実から出発してはいかがでしょう。これを認めたところから始めて、どうするかを考えない限り、相変わらず、回りに気遣う母親をはじき出していくばかりとなります。
これを克服しないかぎり、教会は救いの場、安らぎの場となることができません。
おそらく、世間で子どもを虐待する親の周辺でも、似たような情景があるのではないか、と想像できるからです。
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