伝道・とくに若い世代に対して

2002年11月

 伝道について考えてみましょう。
 教会は伝道が命だとされています。キリストの福音を伝えるのです。たんなる同好会クラブではなく、キリストの命令を受けて、よきおとずれを伝えて、新しく教会に来る人を増やすようにしなければなりません。
 今、どのようになされているでしょうか。
 どの教会も、「伝道費」という予算部門があって、かなりの部分を占めていることと思います。それが教会の第一の使命であるかのように、一番の額を使っているかもしれません。(一番は、牧師への謝礼でしょうかね?)
 伝道費、何に使ってあります?

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 トラクトと呼ばれる印刷物は、今でも健在でしょうか。教会案内のチラシのようなものを、近隣の各戸に配布するのです。通常、信徒が一軒一軒歩いてポストに入れていきます。配布する人員が揃わなかったり、あるいは大規模に配布を計画するときには、新聞の折り込みに頼むようなこともあります。それはまったく教会の案内だけであったり、教会で特別に開く催して゜あったりします。
 ただ、宗教団体のチラシというものは、扱いが難しくなってきています。マンションでは、そうしたチラシを一切拒否しているところもあります。アパートでもそうです。一切お断り、という表示を無視してチラシを入れると、面倒なことになる場合があります。それで絡んでくる人も現にありますし、実際それを守らなかったということで、逮捕されることもあるのです。オウム真理教の場合、このことが捜査の根拠となっているので、他の宗教団体だけが自由にしてよいということにはなりにくいわけです。

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 ポスターは貼っていますか。
 電柱に、つねに教会の案内が、矢印とともに貼ってあるというところもあります。たかぱんが以前住んでいた京都では、景観の問題もあって考えられなかったことですが、他の地域ではわりと寛大なようで、広告などとともに、教会の案内が電柱に半永久的に貼られている、ということもあるようです。
 概して、催しのあるときにのみ、ポスターを貼るというのが一般的なようです。それが合法なのか非合法なのかは、よく分かりません。町の清掃日だとかいって、無惨に剥がされることもあります。たとえ違反広告であっても、資格のない立場の人間が勝手に剥がすことは法律的にできないはずなのですが、町の行事ならそれが自由にできるというのは、合点がゆかないところです。
 クリスマスやイースターはポスターを掲示する教会が多いようです。特別伝道集会もそうでしょうか。
 クリスマスは、すっかり日本の習俗になってしまいました。今では、寺でも、とくに子どものいる住職はクリスマス会をするのが一般的で、仏教の原則に立って、そんなものはできない、と言い張る寺のほうが少なくなっているかもしれません。
 あるいは、クリスマスは商売目的のもの、さらには季節の行事の一つになってしまっています。教会が心を込めてつくるポスターなどより、よほど魅力的で人の気を引くようなポスターが、商店街には数多あふれています。教会のクリスマスのポスターには、あまり魅力はないようです。習俗化されてしまうというのは、知名度は上がるにしても、却って問題を含むということもあるようです。
 イースターはもっと悲惨です。商売目的に今のところ活用できないゆえに、まったく盛り上がりもなく無視されてしまいます。ある意味で、教会ではこれほど大切な、記念すべき行事はないはずなのですが、一般的に伝道のために用いることは、ほとんど不可能な現状です。
 代わりに、もてはやされるのが、ハロウィン。キリスト教とは無関係であるはずなのですが、クリスマスに次いでこれが知られ、賑やかにされる傾向にあります。「ハロウィンはキリスト教の祭りです」などとニュースで紹介されることがあるのは、なんとも嘆かわしい。

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 トラクトやポスターが賑やかになるといえば、特伝、つまり「特別伝道集会」というもの。ふだん説教をする牧師とは異なる、ゲストの講師を招いて、地域の人々や伝道したいとする人々に、宣伝をする機会を設けるというものです。
 考えたら、特伝とは不思議なものではありませんか。人を招くなら、毎週説教する牧師の礼拝へ招くことで、何の問題もないはずです。キリストの救いへと招かれる人材は、なにも特別なゲストによらなくても、洗礼へ招かれて然るべきです。わざわざ特別伝道集会などと名打った集会を用意しなければならない理由は何なのでしょう。
 収穫の秋だから、という理由で、秋に一斉に特伝が開かれるのも、どうなのかな、と思うことがあります。いかにも秋という季節は、収穫に相応しい。だから、福音伝道の種まきをしておいたのが、いよいよ救いの体験へのゴールとして、秋の季節に特別なプロの伝道師による集会を催す、という気持ちが、分からないわけではありません。けれども、「秋」という文字は、 穀物を取り入れる意味からできた文字で(だから「のぎへん」が付きます)、だから、取り入れのためには、夏の後の季節に限定されたことではありません。屁理屈のようですが、たとえば福音書で取り入れのために例示されている麦はどうでしょう。「麦秋」という季語が夏の季語であるように、麦の取り入れは、日本では5月から6月です。福音書の記事に従うなら、夏に取り入れを導いてもおかしくないはずなのですが、大多数の教会では、収穫の特伝は、なぜか秋です。
 各地を転々とするその道のプロである伝道団体の講師は、秋に慌ただしく各地で特伝の講師を務めた後、他の季節には暇になる――という図式さえ成り立ちます。
 どうしても「秋」でなければならないのでしょうか。

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 別の角度から考えてみましょう。
「クリスチャン」に似合う形容詞を募れば、まずまちがいなく一位になるのが「敬虔な」。ステレオタイプなその言葉に、嫌悪したり、あるいはトラウマを覚えたり、といった信徒が多いと思います。
 昔は、それが当然とは言わないまでも相応しい評価だったかもしれないし、クリスチャンの側でも、それを励みにしていたかもしれません。ですがそれがしだいに偽善のようにさえ見なされてきました。それは、多分に、一般の社会からではなく、クリスチャンたち自身の中から。それだから今なお、そういう形容詞がつきまとうわけであり、ますますクリスチャンたちは戸惑います。そしてそれは、外部から教会の中へ足を運ぼうとする気持ちを遠ざけてしまうことにもなりかねません。
 他方、気がつけば、教会に集う人々の平均年齢は、かなり上がってきました。お年寄りばかりで、執事の被選挙権をもつ人は相当な高齢者ばかりで実質職務が遂行できない、という悩みを抱えた教会も、多くなっているようです。
 まるで、仏教が、高齢者を抱えていく傾向にあるのと、同じ経路をたどっているかのようです。このままでは、キリスト教も、老人特有の酔狂のように見なされる日が近いのかも知れません。

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 若い世代の人々は、教会を魅力ある所と感じているでしょうか。たぶん、感じていると思います。でも、彼らは教会に来て信じようとはしないのです。なぜでしょうか。これが、今後の教会伝道を考えるうえで、最大のテーマとなることだと思います。
 若い世代の人々にとって、教会は、ずばり「ダサい」のです。
 それは、かっこわるいという程度の意味のほかに、何か近寄れないという意味もこめて、そうなのです。自分がそこに入るのに抵抗があるというか……。
 たとえば、仲間内だけでやりとりするような礼拝進行。言葉の分からない歌詞をありがたそうに歌う『讃美歌』。そう――『讃美歌』の歌詞は、若い世代にとっては、英語以上に遠い外国語であることに、お気づきですか? すでにその親の世代がようやくいくらか触れているだろうか、という段階の文語です。擬古文の特技をもつような人でなければ、それはまるで意味の分からない言葉なのです。それを、昔から歌われているからそのうち分かる、などと高をくくっていること自体、仲間内だけでかたまっている証拠といえるでしょう。

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 集団主義と個人主義とが錯綜している日本の現状も、一つの難点となっています。
 昔からの集団主義は崩れている一方で、原理的な個人主義はできていないゆえ、何か都合の悪いことが起こると、もう一つの立場に逃れてしまいます。皆と同じにしようと言えば個人の自由だと反発し、自分で決めればよいと言われると皆がしていないからできないと答えます。教会という存在も、世間の人の心の中ではその狭間で揺れ動き、あるときは尊敬をもって語られ、あるときはカルトの如くに扱われたりもします。たとえ好意的に見られていたにせよ、ではあなたはどうですか、とくると一人で覗く勇気もない……。
 教会の側でも、こんな考えがよく語られます。
 人数が多いのがよいのではない。そこにいる人の信仰の質が大切である、と。
 いわば少数精鋭ということでしょうか。むやみに多くの人が教会に押し寄せても、毒麦のようなものばかりでは困る、というつもりでしょうか。それはまるで、教会に出席している自分が紛れもなく精鋭者であるという自負に基づいているかのようです。
 たくさん教会に集ったほうが、いいに決まっています。その中にはいろいろな問題を起こす人も現れるかもしれません。でも、今教会に来ている自分も、その一人ではありませんか。そういう自覚はありませんか。自分はまさに「敬虔な」クリスチャンだと言いたいのでしょうか。
 そして、問題があるからこそ、教会に救いを求めて来たし、来ているのではないでしょうか。イエスのもとに集まったは、罪ある者、世間からはじき出された者ではありませんでしたか。律法学者もファリサイ派も、むしろイエスの敵役だったではありませんか。
 また、男だけで5千人集まった、などの記事を見ると、膨大な人数がイエスとその弟子たちを取り巻いていたことが分かります。それほどに、救いを求める者、この世で辛い思いをしている者、癒されなければならない者が多かったのです。今の時代は、それとは異なるというのでしょうか。
 教会には、たくさんの人が出入りしたほうがよいのです。

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 イエスの弟子たちの年齢は、どうだったでしょう。同年代か、それより下あたりとされてはいませんか。
 イエスの教えには、若い世代がすべてを捨てて従ってきていたのです。若い世代に魅力があったのです。
 キリスト教は、編纂された書物としての聖書が最高峰にあるのでしょうか。いえ、その聖書が伝えようとした、キリストそのものこそ、最高峰のはずです。ならば、キリストがどういう背景で、どういう眼差しで、どういうものを見つめて、どういうことをしたか、しようとしたか、そこに注目してしかるべきではないでしょうか。
 福音を伝えるために、イエスは弟子を遣わしました。出て行くように命じました。イスラエルの地をくまなく巡りました。そうして、癒しを求めている人の友となり、数々の奇蹟を起こしました。そのうち、有名になるにつれ、奇蹟は影を潜めるようになり、論争が多くなりました。どうにも、こうした動きは、近年の新興宗教と類似点さえ見られるのですが、やはりそこにも、強く出て行くエネルギーがあることを否定することはできません。
 出て行く。
 若い世代の中へも、出て行く。思い切り、真正面からぶつけてみる。多少の抵抗があるのは当然、ダサイと言われても、現にそうなのだから甘受する。それより、そのダササのままで出て行くことを続ける。
 初めは軽くあしらうのが若い世代の習性。繰り返し出て行くことで、何かがあると注目し始めるかもしれません。そして、一度そうかなと入っていくと、まっすぐに信じる傾向さえある点では、おとな以上に素直に変化を受け入れてゆくものです。
 それを期待しすぎることなしに、ひとつ、出て行くことを続けるのは如何でしょうか。
 案外、それを待っている、というのが真実に近いような気がしてならないのですが。


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