実務と信仰
2003年3月
以前、京都の教会で、会計の任務に就いたことがありました。
神は天より恵みを与えてくださる、と口では言いながら、教会組織もこの世に存立する以上、会計報告を役所に提出しなければなりませんので、銭計算をしなくてはなりません。
運悪く、新約聖書にはザアカイという、守銭奴だった人の有名な話があります。最悪なのは、ユダという、イエスを裏切った者もまた、弟子一行の会計を司っていたことがはっきりしており、ついにイエスを奴隷一人分の金で売ったということです。こんな例も引き合いに出されてしまう可能性があり(教会の人はそんなこと言いませんけど)、金銭管理というのは、どうもイメージが悪いような気がしてなりません。
「まあ、汚れ役だね」
と、ある先輩は言いました。
近年、教会員の数は伸びていないと言われています。日本では信徒が1%とも言われますが、宗教各派にあるように、実質以上の人数が発表されているように見受けられます(もちろん、心で信じている、などの人はカウントされないですから、神の目から見てどうだという意味ではありませんが)。
そのうえプロテスタント教会は分裂に分裂を重ね、――それぞれの持ち味を活かす上でよい面もあるのですが――、布教ならぬ不況に満ちている状況。教会学校も活気がなく、独立した子どもたちのクラスが運営できない教会も多々あると耳にします。子どもたちも塾にスポーツにと忙しく、日曜日に集まれない事態があり、土曜日に子どもクラスを開いたという教会も少なくありません。
キリスト教に求心力がなくなってきているのは認めざるをえません。御利益宗教やカルト宗教も、キリスト教会から見れば「怪しい」存在ですが、実際上人々の心の拠り所として成立している以上、それが人々の心を掴んでいる点は否定することができません。
「来年度はもう、事務用品費が出せません」
こんな言葉が、平気で飛び交います。
「財政が厳しい折……」
会計報告をする係が、礼拝終了直後の報告で、毎回前口上として言う言葉です。
なんと弱気な発言でしょう。
でも、弱気になる理由は分かります。実際、牧師の給与も低く抑えられたり、規定の分が支払えなかったりしていますし、中には昼間に勤務し始める牧師もいらっしゃいます。数字で見る限り、予算が取れないのは本当ですし、今後も予算が増える見込みはありません。信徒は増えず、信徒の収入が減っているのです。しかも新しい信徒が現れないとすれば、定年退職する人だけが増えていき、ますます教会としての収入は少なくなるのです。
でも、でもです。これでは、世の会社と同じじゃないですか。
いくら教会が地上で運営する一つの宗教法人である(そうでないところもありますが)としても、会社の経営と何も変わらない考え方しかないのでしょうか。
よく、教会学校で語られる話があります。
「ぼくのお父さんは、世界一の金持ちなんだ。なんといっても、全世界をもっているんだ。この世はすべて、その子どもであるぼくたちに与えられているんだ」
そう。神さまは全世界を支配するお方で、私たちはその子ども、神さまを「天のお父さま」と呼ぶ身です。
子どもたちにそう教えておきながら、どうしておとなは、教会の財政について暗い未来しか見ないのでしょう。
たしかに実務は大切ですが、実務の基盤にしか、教会は則っていかないものでしょうか。それは本末転倒ではないでしょうか。天からの恵みを、聖書の中に見いだして、頭ではそれらを理解しておきながら、やはり実際は……と、生活の中では否定してしまうのでしょうか。あれはたんなる昔話だ、とでも言わんばかりに。
ほんとうに、天の窓から豊かに降りそそぐ恵みはないのでしょうか。
「でも、だからといって、無茶な計画をしてよいわけではない。私たちは、賢く財を使うように任されてもいるのだ。蛇のように賢い知恵なしにやっていくのは、無謀に過ぎない」という意見もあります。よく分かります。
でもこれは、無謀というのとは違います。
信仰です。天を見上げ、信じることです。
伝道すればよいではありませんか。どうして、会員の数が増えないという前提でしかすべてを考えることができないのでしょうか。伝道できないという前提の上に立ってのみ、予想してしまうのでしょうか。伝道しなくても、信じる人が増えるとか、教会に助けがあるとか、そうした方向を表に出して歩めないのでしょうか。
「だからそれを、無謀と言うのだ」とはっきり口にしないまでも、告げたくなる人もおいででしょう。でも、せめて牧師は、励ます側に立ってメッセージしてもらえないでしょうか。いくらプロテスタント教会の牧師は、上に立つリーダーという身分ではないにしても、やはり神の言葉を預かる指導者であることにかわりはありません。その一言で、教会員も、希望がもて、前進し、何かをやろうとする気持ちになれるというものです。
メッセージで語れないことは、すべての行動と思いに影響するものです。それはあらゆる面で、消極的であることと、同一の根にあるものです。
実務もまた、信仰の範疇の中で、行われていると、信じられないものでしょうか。
た
か
ぱ
ん
ワ
イ
ド