異端等によるトラウマ
2005年7月
統一協会やものみの塔(エホバの証人)、モルモン教といった組織は、キリスト教世界では一般に、「異端」と呼びならわされています。
当事者の皆様には、不愉快な響きだと思いますが、おそらくこうした方々のほうでも、「いや、キリスト教と自ら言っているほうこそ間違っている」という気概でいらっしゃることだと思います。
そうした異端の中から、普通に言うキリスト教へと変わる人もいます。
中には、家族や知人などがその道の専門家に依頼して、「救出」するという事態もあります。マインドコントロールをかけられたような状態になった人を、常識の世界に戻すということですが、相手の教団からすると、これは拉致だ、ということにもなりかねません。本人の意思を尊重するというタテマエが、脆くも崩れ去るような可能性がここにあります。
異端から、福音へ。これは一種の美談であり、「よかったね」の祝福を受けます。
私は基本的には、これを良かったこととして認めたいと思います。社会と隔絶し社会に反した生き方が好ましいとは考えないからです。
もちろん、それはこの社会が善であるという意味においてではありません。いわゆる旧約時代と新約時代とを分けるポイントの一つが、この社会との関わりにあるように受け止めているからです。
でも、でも、ちょっと待ってください。
通常のキリスト教世界では、これはめでたいことに違いないし、異端から戻ってくるというのは、確かに「よかったね」なのですが、こうしたご当人が、どういう心理でいるか、深く思いやったことが、あるでしょうか。
実は、異端から戻った人は、そうでない人からは想像できないような、苦しい思いで日々を過ごしているかもしれないのです。
Aさんは、その異端の教団において、熱心でありました。
なにしろ、人生で行き詰まっていたところで、聖書の教えを聞いて、心が洗われ、神の道を求める気持ちになったのです。そこで出会ったその教団の教えるところを、熱心に学びました。すると、たしかに心の中に喜びが与えられました。
それまで自暴自棄にさえなっていた自分が、生きる意味を見出して、聖書を読み、求め始めたのです。
やがて、「救い」を体験したAさんは、その教団で霊に燃えた奉仕をしていました。
ところが、聖書を読んでいるうちに、その教団で強く教えられている教えと、聖書とが、食い違うように思われるようになりました。少なくとも、聖書が「これが救いです」と記していないような事柄を、教団はしきりに救いだと述べ、聖書に書いていないことばかりを強調する。
Aさんは、教えられるままにではなく、自分で聖書を詳しく調べ始めました。
やがてAさんは、いろいろな経緯があって、福音的なキリスト教会を訪ね、そこで語られることが、自分が聖書の中に見つけかけていた事柄と同じものであると確信し、かつての教団を飛び出すようにして、プロテスタント教会に身を置くようになりました。
こうなると、たぶん「めでたし、めでたし」ということになります。
でもAさんの心のうちには、こんな不安がありました。
以前の教団の教えは、間違っている。それは少なくとも聖書に照らし合わせば誤りであることが明白である。だが、かつてその教えを受けて、救われたと思った自分、喜んで奉仕していた自分というものもまた、同様に誤りなのだろうか。
新しい教会に来て救いを受けても、ではかつてのあの喜びが間違いであって、今度こそ正しい、そういう区別を、自らつけなければならないのだろうか。あれは嘘であって、すべて間違いで、今度の自分こそが正しい、それは理屈ではその通りなのであるが、あの教団での喜びの日々を、すべて否定し尽くすことは、苦痛である……。
かつての自分にあった喜びをすべて否定するのは苦痛です。でも、教えられていた内容は、否定しなければなりません。ジレンマのような、苦しい精神状態です。
たとえ否定し尽くすことがきっぱりとできたとしても、新しい次の不安に襲われます。
では、今度信じて喜んでいるこの今の自分のことが、また何らかの事情で、実は嘘だった、というふうになることは、ないのだろうか。
これが、仏教とかなんとか地蔵とかいうのであれば、ここまでの葛藤は起こりにくいものです(ただし、あるかもしれませんし、大いにあるものだという認識でいるほうが、フェアであるような気もします)。つまり、全然違う宗教から変わったというのであれば、幾分割り切りやすいところもあるのではないか、という意味です。
なまじ、同じ「キリスト教」を標榜しているからこそ、同じ神が片や自分を騙し、片や自分を救うというふうなことがあるのだろうか、と重く悩みます。同じ名の神が言われていたのに、全然違う結論へと導かれたとあっては、かつての方を否定しなければ収まりがつきません。
けれども、新しく信仰した今度の教えもまた、いつか後で「嘘だった」という評価になってしまうような未来が来ないと、誰が言い切れるのでしょうか。
異端からの回復を経験した人は、多かれ少なかれ、こんな精神状態でいることがあるのだと思います。
かつての教えは否定しなければならない。だから、そこで喜んでいた自分もまた、嘘であったとしなければならないだろう。しかし、そのときにも、自分はイエス・キリストに救われたと思ったのだ。あれは嘘なのか。
このようなジレンマは、人それぞれにおいて、解決方法が異なってくるのではないかと思います。
また、どうかすると、簡単には解決できず、かといって新しい救いの仲間にも正直な気持ちを打ち明けられず、封印するかのごとく、その悩みをどこかの淀みに沈め続けていなければならない思いであるかもしれません。
けれども、最初からその福音派の教えに救われて喜んでいる信徒には、この苦しみが分かりません。無邪気に、「異端から救われてよかったですね」で終わってしまうかもしれません。
異端から救われたということは、とてつもない苦しみを背負うことであると、想像だにしないで――。
そんな中で、Aさんは、負い目を負い続けています。決して理解されないような無邪気な仲間に囲まれて。
事は、そうした有名な異端グループから来た人々に限りません。
様々な事情で、教会を移る人がいます。教会自体に問題があって、ということもありますし、その人自身に由来するものによってであることもあるでしょう。どちらが良いとか悪いとか決められないまでも、教会を変わらなければ落ち着きがとれない、というケースが少なくありません。
最初に出会った教会で問題なく教会生活を送り続けることができている人は幸いです。でも、教会を移らなければならなくなった人は、何かしらの傷を心にもつのです。
あの救いは間違いだったのだろうか、では本当の救いは何だろうか、いや、あのときの救いも確かに間違いなく救いであった……そんな問いかけから、逃れることができずに、問い続けています。そんな悩みをもつ必要のない人は、どうしてそんなことで悩むのか、理解できないかもしれませんが。
新しい教会や教えに喜びを見出して過ごしている、そうした転会者は、無邪気に新しい教えを喜んでいる、というわけではないかもしれないこと。大抵の場合、かつての自分の信仰を否定しなければならないのに否定もできない、といったとりとめもない択一の問いかけを留保し続けているものだ、というくらいに、重荷のあることを想定できないでしょうか。
それだけにまた、似て非なる偽物の救いを撒き散らす者が、どんなに罪深いことをしているか、という点も、知っておく必要があるかと思います。
た
か
ぱ
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ワ
イ
ド