祈りの言葉も出てこない
2004年6月
大量の引用には気が引けるのですが、多くの方の目に触れて戴きたく、また祈って戴きたく、6月27日号・クリスチャン新聞の記事をまずそのままご紹介致します。
http://csd-news.gospeljapan.com/d_base/news/news2004/0406270101.html
佐世保小6女児殺害事件
市内の教会もショック−−「祈りの言葉出てこない」
長崎県佐世保市の大久保小学校で起きた小6女児殺害事件。テレビ報道によると、加害者の女児は「神様はいるんですか…助けて」とチャットに書き込んでいたという。日本を騒然とさせた事件の発生から3週間あまり。地元の教会では「祈りの言葉さえ出てこない」と、とまどい、驚き、ショックが今も続いている。また、娘が被害者、加害者と同じクラスだった牧師もいるという。
日本基督教団佐世保比良町教会(大田七千夫牧師)は、大久保小学校から歩いて10分。大田牧師の娘は、大久保小学校の1年生だ。大田牧師は、「近くだからこそ、互いの気持ちをより理解し合えるようにと祈っている」と語る。「自分もこの出来事を消化しきれていない。どう祈ればいいかわからず言葉にならない状況がある。娘にもこの事件をどう伝えていけばいいか迷っている」と語る。教会では「今まで子どものために真剣に祈ってきただろうか」という問いかけが起こっているという。
日本バプテスト連盟佐世保キリスト教会の岩尾清志牧師は、「被害者と同じクラスだった知り合いの牧師の娘は、心的外傷後ストレス障がい(PTSD)の症状が出ている」。その牧師と接すると「どんな祈りの言葉も上っ面になってしまう」という。「『ありがたいけれど、通り一遍の言葉で祈ってほしくない。そっとしておいてほしい』という気持ちではないか。どう慰め、どう声をかけていいかわからない」
「現実は本当に痛々しい。『被害者、加害者、事件に遭遇した家族の上に平安があるように』という祈りでいいのだろうかと考えさせられている」と岩尾牧師は述べた。
日本基督教団佐世保教会の深澤奨牧師は「教会学校の子に大久保小学校の生徒がおり、被害者と同じクラスの子もいる。学校に行けず、勉強ができず、子どもたちは相当な傷を負っている。しかし、学校側ではそういう子の対応が十分できていない」と語る。
深澤牧師は「これは事件を起こした女の子だけの問題でなく、大人の責任でもある」と強調。「命を軽視する大人社会のゆがみが複合的に重なり、ああいう事件が起こったのだと思う。傷を負った子どもたちのため、また大人の社会が変えられるために祈る必要がある」と述べた。
佐世保市内のカトリック、プロテスタント諸派の教会で作られている「佐世保キリスト教連合」会長の伊藤聡牧師(日本バプテスト連盟相浦光キリスト教会)は、「去年、長崎市内で起こった幼稚園児誘拐殺人事件の被害者が佐世保出身だった。同じことが2度と起こらないよう、何度も礼拝で祈っていた。その矢先のことで二重のショック」と語る。「神様はいるんですか…助けて」という言葉を見た時は、「その子にキリストを紹介できたらと思った」という。
「娘が被害者と同級生だった牧師家族は、大変傷ついている。地元の教会が協力し何らかの取り組みが必要」だとし、「地元の教会が青少年に対する何らかの取り組みをしようと模索している」と語った。 ◇
兵庫県神戸市須磨区で起きた酒鬼薔薇事件を機にその地区の子どもたちに重荷をもち、事件の翌年、そこに移り住んで子どもや中高生を対象に開拓伝道を始めた谷口明法牧師(日本バプテスト連盟ユースハーベストチャーチ)は、「ついに女の子までが殺人を犯すようになったのか、という感じ。予備軍はいっぱいいるのでは」と語る。
特に事件のきっかけとなったチャットの世界にふれ、「子どもたちはあふれるような情報に接しているが、内面的な成長が遅れている。子どもたちに悪影響を与えている情報、雑誌、本、ビデオ、インターネット画像などに対し、教会がそろそろ対処を考え、立ち向かっていく必要があるのではと考えています」と述べた。
日本基督教団佐世保比良町教会の大田七千夫牧師のお嬢さんは、当該小学校の一年生だといいます。牧師は、どう祈っていいか分からない、と口にしています。お嬢さんに伝える方法に困っています。また、子どものために真剣に祈ってきたのか、という自戒も感じています。
日本バプテスト連盟佐世保キリスト教会の岩尾清志牧師は、知り合いの牧師のお嬢さんが、当該クラスの児童であったと言っています。PTSDが見られるそうです。そのお父さんである牧師に会うと、祈りの言葉が上っ面なものになってしまうのを覚えています。かける言葉も見つからない、というのです。平安があるように、などという祈りに矛盾のようなものを感じています。
日本基督教団佐世保教会の深澤奨牧師は、教会学校の子どもが当該小学校、さらに当該クラスにいるといいます。学校に行けない子、勉強が手につかない子がいます。学校がそれに対して十分な対応ができているとは思えない、といいます。背景に、大人の社会の問題を強く指摘しています。その大人には、自分も含まれることを視野に入れての発言だと思われます。
日本バプテスト連盟相浦光キリスト教会の伊藤聡牧師は、地元教会の会長として、地元の教会が力を合わせて何かするべきだと気づきました。一年前の事件のときから子どもたちのために祈り続けてきただけに、ショックを感じています。「神さま助けて」という加害者女子児童の言葉に、キリストの答えがあるはずだと見つめています。
これらが、上に挙げられた地元の牧師たちの声です。
流暢な言葉で祈る。それが、礼拝の中での一つの「しきたり」です。「公祷」とプログラムに印刷されている教会もあります。礼拝の一つのプログラムとして、皆を代表して祈りを捧げる、というものです。中には、そのために祈りの「原稿」を書いて準備してくる人もいます。私が年に一度か二度出ることがある教会の礼拝では悉く読み上げていましたから、もしかすると、そのように指導されているのかもしれません。実に美しい言葉の流れがそこにあります。
祈りとは、あのようにしなければならないのだ、というふうに、初めて来た人は思うかもしれません。
グループで集まって祈ることがあります。順番に次々と口を開いていく祈りです。そのときは、「公祷」ではないだけに、言葉が行きつ戻りつするようなことがあります。しかし、心のこもった、美しい祈りであることが殆どです。時に感情の滲み出た祈りに接することもありますし、聞く側が切なくなり涙めいてくることさえあります。
そういう祈りに触れたニューフェイスの方が、次第にそのような祈りを覚えていくこともありますし、逆にそんなに「立派」に祈れないからと、いつまでも口を開かないままで過ごしていく場合もあります。
このような「祈り」が、佐世保の事件関係者を前にしては、出てこない――これが、上の牧師たちの証言にほぼ共通している内容であるように見えます。
型どおりの祈りは、たしかにできるでしょう。「どうか被害者の家族や関係者に平安がありますように」「主の慰めがありますように」「癒しの御手を伸ばしてください」など、言葉は作ることができます。そして、どの言葉も、決して間違った言葉ではありません。しかし、その言葉が「無力」だと感じることに、牧師たちは気づいているというのです。
すぐれた解答があるかどうかは、分かりません。もしあったとしても、それもまたかの「流暢な祈り」の如く、優等生の言葉ではあっても、無力なものにすぎないという可能性があります。
ただ私なりに見ていく方向は一つもっています。それは、「祈り」は「預言」である必要はなく、「異言」であってもよいということです。
異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。(コリントの信徒への手紙一15:2-4)
異言とは、使徒言行録2:4のいわゆるペンテコステの記事にあるように、「ほかの国々の言葉」だと限定される必要はないのでしょう。人に聞かせて理解してもらうための祈りとは違うということです。
それは、言葉にならない「うめき」のようなものであるかもしれません。そして、その「うめき(呻き)」は、何も人間の専売特許でもなさそうなのです。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。(ローマの信徒への手紙8:21-22)
これに続いて、次のような希望論が花開いてゆくのです。
被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えない物を望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。(ローマの信徒への手紙8:23-25)
牧師というものは、プロテスタント教会においては、たしかに民衆の上にたつ「司祭」のようなものではなく、すべての信徒と対等な立場にあるとされています。上の牧師のうちの二人が属するバプテスト派では、とくにそれが強調され、牧師を特別視するようなことが避けられている、ともいいます。
しかし、牧師は一般信徒と、やはり同じではありません。曲がりなりにも、(たいていの場合)牧師であることにより、収入を得ているのです。そのことをやって生活の糧をもらうというのは、間違いなく「プロフェッショナル」です。「プロ」であるならば、甘えは許されません。まさに「祈る」ことのエキスパートでなければなりません。「祈る」人々のリーダーであり、「祈る」ことを指導する立場にあると見なされなければなりません。
牧師が「祈れない」では、埒があかないのです。
このような事件を前にして、多くのクリスチャンが、「祈れない」と感じているのです。被害者のお父さんを直接知るクリスチャンは、「ブラックホールにコップで水を入れているような気分」だと知らせてきました。「祈れない」ことは分かっているし、「祈れない」と苦しんでいます。
そんなところへ、「プロ」である牧師が、揃いも揃って、同様に「祈れない」とぼやいている場合ではないのです。
事は牧師ばかりではありません。6月20日付け西日本新聞に、五十代の女性だというある読者が、義憤と共に、投書を送ってきたのが載っていました。
タイトルに「思いやりない文科相の発言」とありました。佐世保の当該クラスの担任教師が入院して教壇に立てない状況にあることに対して、大臣が「こういう時こそしっかり現場に復帰して……」と発言したことについての投書です。
担任教師の心を理解していない発言だ、と怒っています。事故で手足を折った人に今すぐ歩けと言うようなもので、愛情のかけらがない、と書かれています。
そして、互いに励まし合えるためには時間が必要だ、と述べ、今は心のケアを最優先すべきだ、としています。教育行政のトップに立つ者は当事者の気持ちになるべきで、思いやりに欠けた言葉を情けなく思った、と結んでいます。
言わんとしていることは、分かります。
しかし、私は敢えていいます。やはり、これは大臣の言う通りなのだ、と。
教師は、子どもを導くことで、給料をもらう、「プロ」なのです。教師も心に傷を負ったでしょう。ですが、子どもたちも同様に、あるいはそれ以上に傷を負っています。精神的に路頭に迷っている子どもたちが大勢いるのに、彼らをまとめなければならないほぼ唯一の立場にある担任教師が、一人傷ついて現場を離れているわけには、ゆかないのではないでしょうか。教師が直接の被害者であるならば別ですが。
担任教師は「プロ」として、子どもたちを放っておく立場にはないと思うのです。
ですから、たとえて言うなら、このご婦人が挙げたような、事故で怪我した人というのは相応しくありません。たとえば、台風が接近したときの、電鉄会社の職員ならばどうでしょう。台風が来て危ないから、自分は出勤しない、ということが許されるでしょうか。電車に乗りたい、乗らなければならない、と駅までやってくる乗客たちのことを顧みないで、自分だけ家に閉じこもっていることは、できないと思うのです。そして、その社員に、職場に出てきてもらえないだろうか、と社長が口にすることは、思いやりがないわけではない、と考えるのです。
牧師先生。今こそ、あなたたちの出番なのです。仕事場なのです。「教会がそろそろ対処を考え、立ち向かっていく必要がある」なんて、呑気なことをこぼしている場合ではありません。なんで、今までそれをしなかったのですか。この最後の牧師は、ネットのプロフィールに「おかしなカリスマやペンテコステ信仰を認めない」と記しています。特殊な神学に傾倒するのもよろしいですが、「おかしな」という曖昧な言葉は、御自分にも向けられているかもしれません。「プロ」ならではのリードを、私たちは牧師に期待しているのです。
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